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「彼氏が蛇をおいていった」16

 ちょっといい、と言いながらも、逃がさないという気迫をにじませて、在原が立ちはだかった。昼食を済ませようと食堂へ向かう廊下で、待ち構えていたと言わんばかりだ。
 オフィス近くの喫茶店に河岸を変えて、ふたりしてほうじ茶ラテを注文した。馬が合わないくせに、味覚の好みだけは似ている。
「人事面談についてだけど」
 宮部部長の体調が予定よりもはやく変化してきたということで、本来なら来月に行われるはずだった人事異動が急遽、デザイン部に限って前倒しになることが決まった。
 それに際して、順次、各社員と部長との面談が設けられた。
 社員にとっては、自分の功績をアピールできる最後のチャンスになる。
「あんたの方から、加賀野がうちのチームに移れるよう部長に進言してくれない?」
「はい?」
 次期部長の座を賭けた最後の駆け引きが展開されることを想定して、在原を言い負かす文句を三つくらいは用意していたのだけれど、まさか加賀野の名前が出て来るとは思ってもみなかった。
「どういう意味?」
「言葉どおりの意味。加賀野は、どっちかって言うとスピード感のあるチームの方が性に合っていると思う。性格はまぁ、控え目だけど。正直、そっちでのんびりやっているより次から次へと新しい案件をまわせた方が利益にもなるし、あの子も楽しいんじゃない」
 いつもより雑味を多く感じるほうじ茶ラテを脇に避ける。
「それって、あなたの私見よね」
「どうかな。いまはまだ、あたしの意見。けど、あんたのチームを外から見て思ったこと。ねぇ、気づいてるでしょう? あの子だけひとり浮いているの。やる気が空回りしないようにあんたの副業のデザインまでして鬱憤をおさえつけてんじゃん。あんたがいい先輩なら、有能な後輩がきらきらと活躍している姿を見てみたいと思うはずなんだけど」
 在原の言うとおり、加賀野の作業効率は良くなっている。頼むデザイン案も増えたけれど、すぐにまとめられるようにもなった。その成長速度にまわりの同期が追いついていないのも事実ではあるが、わたしのチームと在原のチームとでは仕事のしかたがまったく違う。
「ひとにも仕事にも、やっと慣れてきたタイミングでまた一からやり直しというのは、あの子にとって酷じゃない?」
 加賀野がわたしの腰巾着のようになっているのは、なにもわたしのメイクを担当してもらうためじゃない。職場の人間関係と、自身の引っこみ思案な性格の間で加賀野自身が見出した妥協案的なポジションだからだ。
「それこそ、あんたの私見でしょう。すくなくともあたしと話しているときの加賀野は、もっと積極的にデザイン案を出してくれていると思うな」
 なにそれ。それじゃあまるでわたしが加賀野にとっての足かせになっているみたいじゃない。
 勝手な言いがかりをつけて、そうまでして加賀野がほしいの? と言い返してやりたい思いをラテと一緒に飲み下す。
 もしかしたら、在原はもう自分に部長昇格のチャンスはないと諦めて、今後の新チーム構築に舵を切ったのかもしれない。それで、チーム間で人材をやりとりできる唯一の機会だと先手を打ってきたというわけか。
 だとしたら、わたしにとってはうれしいことだけれど、もしこのままわたしが部長になってチームリーダーの席が空いたら、あとのことは加賀野にまかせるつもりでいた。わたしと行動をともにしていて、おそらくチームの誰よりも仕事の勝手がわかっているから。
 だから、加賀野に異動されては困るのだ。
 アイ・トリップ社もスタジオ・メラキも、わたしのチームの案件でこの上ない大きな仕事だ。特にスタジオ・メラキの方は、これまでなら在原のチームに割り振られていたはずの案件だったろう。けれど、これを機にベンチャーやスタートアップ企業を相手にしても質の良い成果があげられるのだという、うちのチームの新たな付加価値の創出にもつなげたい。
 そのためには、やはり加賀野の才能は不可欠。
「残り、あなた飲む?」
 立ち上がりながらラテのボトルを差し出す。在原は首を横に振って、ひとの口紅がついた飲み物なんてまっぴらごめん、と言いながらも、いつになくまっすぐな目を向けてきた。
「とにかく、あの子の芽をつぶさないで」
 つぶすなんて心外な。むしろ加賀野の才能を無駄にしないように、わたしの副業の方からもデザインをする機会を提供しているだけ。
 オフィスに戻る道中、振り返ってみると、車が来ていないのを良いことに、在原が赤信号の交差点をかけ抜けていくのが見えた。
 交差点の向こう側で、昼食帰りの佐々木と談笑している。
 在原と佐々木が別れたタイミングで二台の乗用車が交差点を横切った。


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