本とチャリと音楽と ~藤岡陽子『きのうのオレンジ』の感想~
こんにちは。久しぶりの更新です。チャリ旅の方は博多でチャリを畳んで終了して、輪行で新幹線で大阪に帰って来ました。輪行のためにチャリを分解するのが初めてで、博多では新幹線の乗車時間までにチャリを分解せねばならず、ハラハラしながら作業していました。作業しながらちょっとしたトラブルがいくつかあったのですが、90分くらいでチャリ分解作業は終えて、新幹線に乗ることができました。
畳んだとしても、重量は変わらないわけで、新幹線降りて家まで運ぶのがすごく大変でした。チャリを畳む難易度よりも、畳んだあとそれを運ぶ大変さによって、輪行のハードルが上がりましたね。畳まないでも運べるような運搬方法が確立されれば良いのですが(笑)。
大阪に着いて2日間、チャリに乗っておらず、その間に本を読んだりしていました。今回は今日読み終わった、藤岡陽子『きのうのオレンジ』という小説の感想を書きたいと思います。ネタバレが大いに含まれますので、気になっている方は、この記事は読むのをスキップいただければと思います。
この本はのあらすじは、33歳の何の変哲もない普通の男(笹本遼賀)が突然がんを宣告されて、その後彼を取り巻く環境と共にどのように生きていくか、というもので、最後亡くなってしまいます。
闘病の過酷な経過を描くのがメインではなく、遼賀の周りの人間それぞれの視点から、遼賀の病をどう受け止め、どのように各々が悲しみや悩みを昇華させていくのか、というところに焦点が当たっています。遼賀の母親、弟、高校の同級生、職場の部下、など章ごとに視点が変わり、各々の生い立ちと、遼賀との関わりが描写されています。
遼賀は、昔から目立つタイプのキャラクターではないが、でもいつも他人をさりげなく思いやる優しい人間として描かれていました。いかにも優しい人間というよりは、その優しさに恩を着せないようなさりげなさを持ち合わせていました。
そう言った主人公なので、周りの人間は、病状が悪化していくことに焦燥感と悲しみと罪悪感と、色々な複雑な感情を持ち、遼賀と向き合います。病気になっても遼賀は弱音を吐かず、人を思いやり、その貫かれた本人のパーソナリティに、周りの人間はさらに遼賀の衰弱を悲しみます。
おおよそこんな感じで、特にどんでん返しや大きな伏線回収などの叙述トリック的な要素もなく、ストーリーが進んでいきます。また、細かな設定がいくつか設けられており、その要素がストーリーの各箇所で重要な意味を持つこともあったりします。
感想としては、全体的に読みやすく、またありきたりな闘病お涙頂戴ストーリーにとどまることもなく、心に残る作品でした。ありきたりにならなかった理由としては、やはり登場人物の細かな設定や心情、人間らしさが精巧に描かれていたからだと感じます。具体的なエピソードによって、自分自身がストーリーに没頭しやすく、登場人物に感情移入しやすい内容でした。
ただ一方で、主人公の遼賀が綺麗に描かれすぎている印象もありました。実はさりげない思いやりがあって、誰からも愛されているという特性が綺麗すぎた印象です。もう少し人間らしさというか、醜さみたいなものが表現されていても良いのかな、と思いました。闘病しているわけですし、死への恐怖ややるせなさが少なからずあったと思うので、それをナレーションではなく、セリフとして周囲へ表出させる場面もあってよかったかもなぁ、と個人的には感じました。しかし、遼賀はそういう人間なんだ、という前提で考えると、この物語にその要素は必要なかったかとも思います。
また、主人公の遼賀以外の人物の死についても言及されていることが多く、読者に死というものを考えさせる場面も多かったです。僕も自分がこの登場人物それぞれの状況だったらどうするだろうと考えてしまって、少し悲しく辛い気持ちにもなったりしました。
最後は亡くなってしまうのでハッピーエンドではないですが、残された人間たちの負の思いが昇華された状態で終わるので、終わり方自体は爽やかでよかったです。
この本を読み終わった後に、僕自身の人生に当てはめて色々考えてました。自分が今不治の病を患ったらどういう気持ちになるか、どういう行動をとるかや、逆に周囲の近しい人間が患ったらどうするか、とかを考えました。
もし自分が患ったら、誰にも言えないだろうなぁ、と思いました。自分のことで人を心配させたりとか、大騒ぎになるのを恐れてしまうので、言うまでに時間がかかるだろうなぁと思いました。僕は死にたくないので、あらゆる治療はすると思います。しかしそれでも余命が宣告されたら、衰弱する前に会いたい人に会ってその人がいかに私にとって大切な人であったかを伝えたいです。その後チャリ旅にまた出かけます。衰弱して運動ができなくなったら歌や曲を作りたいです。こんな優雅に過ごせないでしょうけど、最後に自分のやりたいことをやりながら死んでいきたいと思いました。
自分の近しい人間が患った方が僕は辛いだろうな、と思います。というか正直、耐えられる自信がないです。無力さと謎の自責の念を抱えて、自分で自分を苦しめていきそうです。それでもその人の願いを最大限叶えるために奔走したいと思います。まあでもそれはエゴでしかないのですが。最後はあなたが僕にとってどれだけ大切な人であったかを伝えたいです。でもすごく悲しい気持ちになりそうで、想像するだけで鬱になりますね。
こういう死のことを考えると、自分はどう生きるべきなのか、というのを嫌でも考えてしまいます。ちょうど今、自分のキャリアについて悩んでいて1ヶ月という長い休暇をとっているのですが、それよりももっと広い視点で、どういう人生を送るべきなのか、考え込みました。
自分が本当にやりたいことは何なのか、自分の人生を使って成し遂げたいことは何なのか、とかを考えました。しかし、なかなか答えが出ません。確かに、今の仕事を通してある程度自己実現はできていますし、チャリに乗ることは好きですし、音楽も好きなんですけど、それらを生業として生きていく、ということのイメージができないのと、それが本当に自分のやりたいことなのかもよくわからないのです。
やりたいことが明確でないので、人生に余白が欲しいといつも感じています。これ、というものを定めることができないので、流動的に生きることができるように、隙間を設けておきたいのです。その中で、やりたいことが見つかればいいですし、見つからなければそのまま流動的に生きて行ってもいいのかな、と思います。逆に人生に余白さえあれば、何を生業にするかは特段問題ではないのかもしれません。
すみません、本の感想の記事なのにめちゃくちゃ自分語りしてしまいました。とりあえず、この『きのうのオレンジ』はおすすめできる小説でした。皆さんも涙を流したい気持ちになった時や、周囲の人を想う時に読んでみると良いのでは、と思います。
では、また次回です。
📕