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病牀六尺に想う
僕は最近、というかこの3〜4年の間、病床六尺の世界に閉じ込められている事が多い。病牀六尺というのは正岡子規の随筆の題名で人ひとりが横になれる布団一枚の広さのことだ。子規はこの世を去る2日ほど前までこの本の執筆をしていたという。冒頭の部分で子規はこう書いている。病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである…、と。明治の時代の寝床の事情は分からないが現代の病院のベッドというのは普通のシングルベッドよりも少し幅が狭く、寝るのには少し窮屈だが、色々と身体に管が取り付けてあると逆に必要なものを取ったりするには手が届かずもどかしい思いをすることになる。子規の言う広すぎるという意味合いとは若干ニュアンスが異なるけれど、人間が病いに臥せっているときに必要な広さとはせいぜいこんなものなのかも知れない。で、話を本題に移すとして僕も子規を気取って病床でものを書いてみようと何度も試みた。今の時代、ものを書くといっても大抵はiPadひとつあれば事足りる。面倒な準備も必要ないわけだが、書けないのだ。病気による痛みとか不快な気分、体の倦怠感などが思考の邪魔をするのである。子規が患っていた病気の苦しみよりはるかに楽なはずなのに書こうという意欲すらあまり湧いてこない。これはもう執念とか、意志の強さの問題なのだろう。それが証拠にゲームならいくらでもできるのだ。何とも情けない話である。時々ニュースなどで見かけるこの類の記事、例えば一流アスリートが病に冒されながらも必死のリハビリトレーニングで競技に復活したとか、物書きを生業にしている人が病床で本を書き上げたとか、やはりそういう人たちはそういう力を備えているんだろうなとつくづく思った次第である。ただ、病床六尺の世界に完全に閉じ込められてしまったときに頭脳ははっきりとしている場合、その広さを無限に遊ぶ事ができるか否かは、それまでの生き様に大いに影響されるだろう事は容易に想像がつく。今、病床でものが書けなくても、いざというときその広さを超えて思考を飛ばし、無限の空間を思うように行き来できるよう心豊かに生きて行きたいと思っている。