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受け身のリーダーシップという戦略
2020年5月半ばの段階では、日本は他国に比べて、新型コロナウイルスの感染拡大のスピードを抑え、死亡率を下げる、という意味ではまずまず上出来だと言えます。5月16日時点で、直接の原因で死亡した人の数は725人であり、これは10万人あたりにすればスペインの100分の1に近く、アメリカでも50分の1日に近い、ドイツですら20分の1程度です。
しかしこれらの国に対し、日本のリーダーの評価はかなり低いものになっています。確かに政策が二転三転することがあったり、国民に対する強い発信がなかったりと「危機の際の強いリーダーシップ」とは言えないところがあります。いくつかの国のように、「協力はタダじゃない」とばかりに、国民に外出禁止の強力な規制を設ける代わりに多額のバラマキを行う、攻めのリーダーシップのほうが好まれるのかもしれません。しかし、今までのところ感染対策はうまく行っているところを見ると、もう少し評価されてもよさそうなものです。
ポピュリズムという視点から見てみると、明確な「敵」のあることは「攻めのリーダーシップ」が高く評価される条件の一つといえそうです。しかし、「攻めのリーダーシップ」だけが問題の解決に役に立つとは限りません。勝ったところで得るもののない新型コロナウイルスとの戦いにおいて、「協力にお金を払い」強制力を効かせていくというのは、いかにもポピュリズム的対応です。残念ながら国民一人ひとりで状況が違う以上、協力にお金を払うというのは自由でも公正でも公平でもありません。弱者を救うというのと、協力にお金を払うというのはもしかしたら対極ですらあるかもしれません。弱者を救うことが大切であって、みんなが等しく恩恵を受ける感染症対策の協力にお金を払う必要はありません。
戦略的に見ると、第二次ポエニ戦争の際のクィントゥス・ファビウス・マクシムスのように、「受け身のリーダーシップ」が長期的な勝利に繋がることもあります。特に敵に短期的に打ち勝つことができず、長期戦を強いられる場合、「攻めのリーダーシップ」が必ずしも最終的な勝利を収めるとは限りません。
ファビウスの戦略の中核は、「カルタゴ軍の進軍を無理に阻止せず、影のようにその後を追尾し、消耗するのを待つ」というものでした。この戦略は日本が現在行っている「感染機会を減らし、クラスターを追跡し、ウイルスが徐々に減っていくのを待つ」という戦略とよく似ています。
日本で今行われている感染症対策だけでなく、経済対策にしても感染症の広がりがどのようなものかわからない以上、後手後手になるのはある意味当然とも言えます。このような戦略を取ると、「敵」の動向に左右されざるを得ず、「受け身のリーダーシップ」とみなされることになります。
しかし、ファビウスの「受け身のリーダーシップ」が強力なハンニバルに最終的に打ち勝った理由の一つは、自然と「市民の強い協力」を生み出した、というところです。「少しずつ敵の戦力をそいでいるのは間違いないが、いつ敵が攻めてくるかわからない」、という不安感が市民の協力を引き出し、市民が結束して行動し持久戦と小競り合いの繰り返しに力を与えました。
得るもののない新型コロナウイルスの戦いにおいて、「国民の強い協力」が得られている限り、「受け身のリーダーシップ」を行使して、「協力に金を払え」というポピュリズムに堕することなく、成果を上げていくという戦略はもしかしたら非常に冷静で、賢いのかもしれません。
ただし、国民の協力が得られなくなった時点で、この戦略は崩壊します。そうなるかどうかは、なんだかんだ言って協力する人ではなく、経済的に(あるいは精神的に)耐えきれなくなってやむにやまれず協力しなくなる人をどの程度減らせるかにかかっています。様々な施策が、このやむにやまれず協力しなくなる人をどの程度減らせるということが、今後試されてくるはずです。これに失敗するとニューヨークのようになります。
結局のところ、「攻めのリーダーシップ」にしろ「受け身のリーダーシップ」にしろ、ウイルスとの戦いにおいて最終的に重要なのは「国民の協力をどう引き出すか」、というところです。これは国民の考え方によって変わるので、国によって正解は変わってくるはずです。一様に国際比較などできようはずがありません。リーダーの皆さんには大多数の国民から協力が得られるリーダーシップを発揮していただきたいと思います。