太平洋戦争はこうしてはじまった⑳

破綻する日中宥和方針


 ワシントン会議における九ヶ国条約により、中国は領土と主権が保証され、門戸開放と機会均等の原則が取り決められた。だが欧米列強国は大陸における既得権益を手放さず、中国の北京政府は国権回収を性急に進めることになる。
 当然、大陸に利権を保つ日本も対象となった。すでに1919年には、「対華二一ヶ条要求」の反発による抵抗運動(五四運動)が起きていたが、再び対日運動が再び活発化しはじめた。日露戦争の戦後処理で権益譲渡された旅順・大連の租借期限が、1923年の3月26日に満了となるからだ。ただし、対華二一ヶ条要求で期限は1997年に延長されている。
 中国国内では旅順や大連の権益奪還を目指す「旅大回収運動」が沸き起こり、紡績業の不振による国内不況もあって対日経済絶交運動も活発化。1923年6月には、湖南省長沙にて汽船武陵丸の入港を妨害するデモ隊と、砲艦「伏見」「隅田」の水兵が衝突する「長沙事件」が起きている。事件は7月末まで鎮静化せず翌年には下火となるも、1925年5月30日のイギリス警官発砲事件を契機に活動は再燃し、対日・列強ボイコットやデモが頻発するようになった。
 このような中国国内の反発に対し、幣原喜重郎外相は九ヶ国条約に基づく解決を目指していた。1925年7月に国民革命軍が北伐を開始すると、対中宥和を提案する米英に対し、安易な譲歩はさらなる混乱を招くと反対の意を示す。1927年に革命軍が上海・南京の外国人居住区に接近し、イギリスが日英共同出兵を提案しても、内政不干渉を維持してこれを一蹴した。その最中に発生したのが3月24日の「第二次南京事件」だ。革命軍の襲撃で外国人15名が死傷者する事件を受けて、米英は艦砲射撃と陸戦隊の上陸にて報復を実行。だが日本は「強硬策は蒋介石総司令の敵の利になる」と列強側に自制を呼びかけたのである。
 こうした幣原の穏健策は、米英はもとより日本国内からも反発された。すでに新聞各社を通じて襲撃事件は国内に知れ渡り、メディアと民衆は幣原外交を「軟弱」と批判。朝日新聞も4月5日付の社説で日本政府の宥和策を厳しく糾弾し、4月20日の第一次若槻内閣の総辞職で幣原は外相を降ろされた。後任の田中義一首相兼外相は対中積極外交に舵を切り、大陸への干渉を強めていく。大陸進出本格化の土台は、穏健外交の失敗で形成されたのである。

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