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戦争を重ねるうちに意味が変わった

「大和魂」といえば、「正々堂々」「勇猛果敢」という、男性的な心構えのイメージがある。特にスポーツの世界では、「大和魂にのっとる」であるとか「大和魂を発揮」という言葉が使われることもある。だが、そもそもの大和魂は正反対。雅でたおやかな様子を表したものだったのだ。
 大和魂という言葉。その初出は、平安時代の小説『源氏物語』の『少女』の帖とされ、そこには「なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ」とある。これは主人公である光源氏の、「自分の子どもが官位を授かるよりも、学問に励むことで大和魂を活かすことができる」という教育指針を示したものだ。
 平安時代中期はそれまでの中国にならった文化ではなく、日本特有の「国風文化」が花開いた時代である。そして大和魂とは、中国を中心とする海外から流入してきた知識や学問(漢才)に依存するのではなく、それらをベースとしながら、日本の実情に合わせて教養を発揮すること(和魂)をいう。
 当時の男性エリートは、まだまだ漢文などの中国文化を重要視していた。そのため、「かな文字」や『源氏物語』『枕草子』といった文学は、女性の文化としてみなされていた。紀貫之が『土佐日記』冒頭で、「をとこもすなる日記といふものを をむなもしてみんとてするなり」とかな文字で記したのは、男性の日記で用いられた漢文ではなく、女性の文字を使うことで細かい心の機微を表現しようとしたとの説がある。
 ただし、当時の和歌はかな文字で記されているので、一般的には男性も女性もかな文字を使っていたと考えられる。それでも文化の担い手は女性であり、それは家族の中で女性の立場が強かったことに起因する。
 確かに政治の中枢は男性によって掌握されていたものの、平安時代の社会は母系制社会だった。結婚は「通い婚」で、男性が夜に妻の家に行き、朝になると自分の家に戻るというのが普通。当然、子どもは母親の家で育てられることになり、夫は自分の子どもの顔を知らないということも珍しくなかったのだ。
 そして男子は15~16歳の年になると、結婚相手を探す、もしくは紹介されて家を出ていく。女子は母親と生涯暮らすことになり、家も娘が受け継ぐ。何人もの女性の家に出入りしていた男もいたようで、この頃の庶民に「家」や「家族」という概念は薄い。
 家柄を重んじる貴族でも同じようなもので、父親は母親のもとで育てられた息子に地位や権力を譲るが、家の実権は女性が握っていた。平安時代に女性天皇こそ即位していないが、父親である鳥羽上皇や母親の美福門院から莫大な資産を受け継いだ暲子内親王のように、特別な権威や資力を持つ女性は存在したのだ。
 鎌倉時代にも、源頼朝の妻・北条政子が権力をにぎったように、女性の地位は高かった。戦国時代でも家運を左右した女性がいたので、現代人が思うほど女性の地位は低くなかったのである。それが逆転するのは、江戸時代に入って儒教の一派である朱子学が広まり、「幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う」という「三従」という教えが浸透してからだ。
 つまり、平安時代に概念として誕生した大和魂は、非常に女性的なものだった。江戸時代中期以降になって古典の研究をすすめた国学でも、大和魂は女性的な感情とされ、国学者・本居宣長は異国的な「漢才」や「漢心」と対比するものととらえる。宣長は平安時代の王朝文学から、大和魂を情緒的で無常観に満ちた美的理念とし、「もののあはれ」という言葉で表現している。
 しかし幕末になると、大和魂は日本の独自性を主張するための用語として使われはじめる。それは天皇を敬う「尊王論」や外国人を排斥する「攘夷論」と結びつき、過激なナショナリズムの精神的支柱となる。つまり、大和魂は文化の概念ではなく民族的な精神を表す言葉に変化するのだ。
 やがて幕府が倒れて明治新政府が成立すると、政治家はそれまでの幕藩体制ではなく中央集権化を目指す。必要なのは国民の統制教育であり、天皇を頂点にいだく国家体制の構築だ。欧米列強に対抗するためには、国民が一丸となって天皇のため、ひいては国のために尽くさなくてはならない、と教え込む。また、日本は神の子である天皇が統治する「神国」であるため、難局に陥っても神が助けてくれる、とする。
 この国家に忠誠を誓う精神こそが大和魂であるとし、日清戦争や日露戦争で勝利を納め、大国の一員となると、より大和魂がクローズアップされていく。大和魂は日本の独自性や優位性を表現するものとなったのだ。
 本来の意味から逸脱してしまった大和魂は昭和時代に入って、より極端な解釈を受けるようになる。原因は軍部の台頭と、長い戦争の始まりだ。
スーパー・ダイエーの創業者である中内㓛は著書『私の履歴書 流通革命は終わらない』(日本経済新聞出版)の中で、「関東軍の重砲兵として入隊した当時、『百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に当たる』と教えられた。疑問を挟むと、『貴様は敢闘精神が足らん。砲の不足は大和魂で補え』と怒鳴られた」と話している。また作家の司馬遼太郎は、装甲の薄い戦車について軍幹部による「防御鋼鈑の薄さは大和魂で補う」という言葉を、『歴史と視点 私の雑記帖』(新潮社)に記している。
 このように大和魂は、その意味を捻じ曲げられて伝わってきた。本来は雅な言葉のはずなのに、突貫精神の代名詞のように用いられている。「日本大好き」「日本が一番」という風潮が著しい昨今、「大和魂」はふたたび(すでに?)脚光を浴びそうではある。

「日本人が大切にしてきた伝統のウソ」(河出書房新社)より
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