太平洋戦争はこうしてはじまった⑲
排日移民法への日本人の反発
排日移民法の可決が報道されると、エリフ・ルート元国務長官は落涙したという。ルートは現役時代に極東の経済・領土安定化に注力。1908年には太平洋方面における日米領土の現状維持、日本の朝鮮半島と満州における優先権、中国大陸の領土保全と商工業の機会均衡を定めた「高平・ルート協定」を締結している。こうした日米間の関係改善の努力が無駄になったことへの憤りの涙だったという。
実際、排日移民法に対する日本人の反発は凄まじかった。政府内では政友会、憲政会、政友本党と、各種政党がアメリカ議会への抗議決議を一斉採択。国民外交に努めた渋沢栄一も、宣教師ギューリック宛の書簡に失望の意を記した。
新聞各社も反米方針に舵を切り、東京朝日新聞(現朝日新聞)と読売新聞は、それぞれ4月24・25日付の記事で「三国干渉にも劣らぬ」と非難。また、東京の14の新聞各社もアメリカ批判の共同宣言を発表するなど、対米批判を連日行っていた。知識人からの反発も強く、徳富蘇峰、松岡洋石、出口王仁三郎といった右派系は有色人種支配の証と捉えて、アジア民族の団結強化と大陸進出の促進を促している。
だがここで注目すべきは、親米派知識人からの反発も強かったことだ。当時の親米派はアメリカの自由・理想主義を理想としていたが、今回の法成立で日本人は対象外と宣言されたように映ったようだ。新渡戸稲造、内村鑑三、堀江帰一、林毅陸など、親米派の代表格だった知識人たちは雑誌や著書にてアメリカへの抗議を綴り、内村はアメリカへの不渡航と不買を勧めるなど、失望を隠そうともしなかった。
こうした反対運動に感化された国民の怒りも過熱を続け、アメリカ製品の不買や映画の上映中止が全国規模に広がった。1924年6月5日の抗議大会に集まった市民は2万人以上。即時の対米宣戦布告を求めるといった、激しいヤジと怒声が飛び交ったという。鶴見祐輔のように、事態の静観を訴えた穏健派もいた。
しかし激化する反米世論を抑えることはできず、政治の場でも対米政策が検討されるようになる。1925年1月10日の日ソ基本条約の締結も、ワシントン体制から除外されたソ連との対米協調が目的のひとつだったという。
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