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知られざる太平洋戦争のドラマ⑧

市丸少将が残したルーズベルト大統領への遺言

硫黄島における海軍の戦闘

1944年7月、マリアナ諸島の占領でアメリカ軍はB-29爆撃機の拠点を得たのだが、日本本土の空爆については大きな結果を出せなかった。なぜなら、航続距離の不足で護衛機をつけられず、当初の作戦では迎撃されることも少なくなかったからだ。
そうした問題を解決するため、アメリカ軍は小笠原諸島の硫黄島を中継基地にする作戦を発案。日本軍も硫黄島を防衛するため、島を要塞化して迎え撃つ。これが「硫黄島の戦い」である。
1945年2月17日にはじまったこの攻防戦では、陸軍の活躍ばかりが注目されやすいが、もちろん海軍も島の防衛に死力を尽くしている。
海軍は1944年6月から、小笠原諸島の防空目的で硫黄島に「八幡部隊」という100機の航空隊を進出。アメリカ軍が自軍のマリアナ諸島攻略を支援するべくはじまった「硫黄島空襲」では、米艦載機部隊と熾烈な防空戦を連日のように続け、7月4日に全滅するまで激しい制空権争奪戦を展開していた。
このように、海軍にとっての戦いは、アメリカの上陸前から始まっていたのである。

海軍航空隊の発展に貢献した市丸利之助少将

硫黄島防衛戦で戦った日本側の兵力は2万933人。このうち1万3586人が「第一〇九師団」の陸軍兵で、残る7347人は海軍の兵だった。
この海軍部隊を指揮したのが、市丸利之助少将(のちに中将)である。
市丸は、海軍航空隊の発展に多大な貢献したことで知られる将校だ。1917年に航空術学生になると、卒業後は横須賀の航空隊や水上母艦の勤務を経て霞ヶ浦航空隊の教官となる。教官時代の墜落事故で重傷を負ってしまったが、一命を取り留め海軍航空の発展に尽力することになる。
市丸最大の功績といえば、 「予科飛行練習生(予科練)制度」の整備だろう。
予科練といえば海軍航空兵の代表的な育成制度だが、その設立に携わった一人が市丸なのだ。
1930年に予科練の設立準備委員長として制度の基礎を作ると、そのまま初代部長として練習生の指導にあたった。そうした功績を評価され、市丸は現在でも予科練の生みの親と呼ばれている。

航空隊の壊滅でも諦めなかった防衛戦

日米開戦からの市丸は、南方や本土での防空指揮にたずさわり、硫黄島戦が近づく1944年8月に、第二七航空戦隊の司令官として硫黄島に着任。この航空戦隊は7000人以上の兵をようする硫黄島海軍部隊の主力であった。
だが、すでに八幡部隊が撤退した島にはゼロ戦11機を含む15機の航空機しかなく、この微々たる戦力もアメリカ海軍の砲撃で壊滅する。残ったのは対空要員、整備兵、そして陸戦兵のみである。
防衛戦では、特攻隊が護衛空母「ビスマルクシー」を沈没などの活躍を見せてはいるものの、この戦果は日本本土から出撃した部隊によるものだった。
それでも市丸は島の防衛を諦めなかった。航空隊の壊滅で参謀が島からの転任を勧めたときも、「航空機がなくとも戦う。(大本営も)死なばもろともという気持ちをわかってくれるだろう」と拒否した逸話は有名だ。
しかし、陸海軍の指揮系統の一本化を提案した硫黄島守備隊司令官の栗林忠道中将(のちに大将)に、海軍上層部の意向を守って拒否するなど、陸軍守備隊との関係はよくなかった部分もあるようだ。

最後の突撃前に送った手紙

アメリカ軍による硫黄島への上陸が始まると、市丸は残存兵力を陸戦隊として戦うことになる。海軍陸戦隊は島南部の千鳥飛行場や海岸線に陣地を設けて対抗したが、6万人以上のアメリカ兵と不慣れな陸戦の前に苦戦を強いられ、3月25日には栗林ら陸軍残存兵とともに最後の総攻撃に参加することになる。
このとき市丸や栗林の周辺に残った兵は約400人。それ以外にもまだ数千の兵が残ってはいたが、その大部分が飢餓や負傷で戦闘不可能な状態にあった。
この突撃前、市丸はある相手への手紙を残している。その相手はなんと、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトだ。
「ルーズベルトニ与フル書」と呼ばれるこの手紙では、開戦理由を幕末開国までさかのぼって説明しながら、自由と平等を謳いながらも日系人を排斥し、独裁者スターリンと手を組むアメリカ政府の矛盾を痛烈に批判した。
そして戦後のさらなる混乱と戦争を予言して、この手紙は締めくくられている。
日系二世の三上弘文に英訳させたこの手紙を、市丸は村上治重参謀に持たせて敵陣へと突撃。市丸が最後にどう戦い、どうやって死んだかは、いまもまだわかっていない。
村上も突撃の最中に戦死したが、手紙は運よくアメリカ軍に発見されて本国に持ち帰られた。
ただ、ルーズベルトは4月12日に病死したので、市丸の手紙を読むことはなかった。しかし、回収された手紙は、現在もアナポリスの博物館に保管されている。

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