武器を使わない情報戦―プロパガンダ㉔

レーニンからはじまったソ連の情報統制

報道を牛耳ってイデオロギーを浸透させる

 ソ連はウラジミール・レーニン率いる革命集団「ポリシェヴィキ」によって作られた国家だ。共産主義というまったく新しい思想を国の軸としたために、その正統性を国内に広く認知させる必要があった。また建国時は第一次世界大戦での敗北で国民が意気消沈していたこともあり、国内を安定させるためにも、ソ連首脳部はイデオロギーの浸透を進める必要があったのだ。
 そのために選ばれた手段がプロパガンダと統制だ。レーニンは、自らの著書「何をなすべきか」において、扇動とプロパガンダを明確に区別している。簡単にいえば、扇動とは「少数派の意見を口頭で多数派の民衆に広めること」、プロパガンダは「多数派の意見を理知的な人々に文書で広めること」である。要は相手のレベルに合わせた宣伝をするべきと主張したのだ。 
 ソ連のプロパガンダも、この主張に即した方法で進むことになる。なお、現在ではどちらもプロパガンダと呼ばれている。
 ロシア革命でロマノフ王朝を打倒すると、レーニンは即座に共産党系以外の新聞を廃止した。そうして報道を牛耳ることで、反共・反ポリシェヴィキ論を封じようとしたのである。
 代わりに発行されたのが、「プラウダ」に代表される党系の機関紙だった。ソ連建国後の報道はソビエト連邦共産党中央委員会の報道部が管理し、各地方や州における党組織の報道・扇動部が地方メディアを指導するという仕組みとなった。当然ながら報道や出版には厳しい検閲が敷かれ、党やイデオロギーにそぐわない情報は遮断されていった。
 その一方で、文字の読めない民衆のために、ビジュアルプロパガンダも展開した。もっとも力を入れたのは「人民の礼拝堂」とも呼ばれた映画であるが、ポスターもそのうちの1つだ。
 芸術の多様性と自由を約束したこともあり、ポスターづくりには帝政ロシア時代の芸術家も多数参加。伝統的な版画印刷から、最新式のフォトモンタージュなど、幅広い表現のポスターが人々にソ連の輝かしい新時代を予感させていったのである。

スターリンによる検閲の過激化

 しかし、その約束は守られてはいない。1922年6月6日、ソ連は検閲機関の文学・出版総局を設立している。「グラブリト」と呼ばれたこの組織は、教育人民委員部の一部局として国内の検閲作業に携わった。おもな検閲対象は出版物だが、絵画や音楽、評論はもちろん、菓子の包み紙やマッチのパッケージすら厳しく取り締まっていた。芸術の多様性と自由は、ソ連のプロパガンダに関する範囲だけだったのである。
 ただし、レーニン時代に苛烈な弾圧はなく、自由な出版もある程度は認知されていた。検閲が過激化するのはスターリンの時代からだ。国内の芸術団体は1932年に解散命令が下され、その2年後には「ソ連作家同盟規約」のもとに、社会主義リアリズムに即した作品しか作成できなくなってしまう。
 社会主義リアリズムとは、共産主義社会を現実的に、具体性をもって描き、労働者の思想的教育を課題とした作品作りのことだ。以後、この方針はソ連崩壊までソビエト芸術家の基本スタンスとなる。
 文人は一時期重用され、作家マキシム・ゴーリキーはスターリン政権の広告塔として支援されたばかりか、専用の宣伝航空機を運用する計画も上がっていた。しかし、スターリンの心変わりで自宅軟禁となり(のちに病死)、航空機もデモ飛行の事故で全損している。

ソ連はプロパガンダが苦手?

 出版物が持つメッセージ性と伝達力は、レーニンの著書で支持者を増やしたボリシェヴィキが一番わかっている。もしも反体制的な文学が支持を集めたら、スターリンにとっても大変危険なことだ。
 ゆえに作家への検閲はほかの芸術の比ではなく、屈して作品を焼き捨て、筆を折る者も少なくなかった。このようにして情報統制とプロパガンダを駆使し、ソ連は国内をまとめようとしたのである。
 では、これらの施策が国民に効果があったのかというと、実はあまりなかったようだ。いくら輝かしい共産世界を描いたとしても、レーニン、スターリン時代は飢餓や戦争で最も苦しい時代であった。現実が宣伝に則さなければ説得力はなく、まともに信じていたのは、子どもか共産主義の熱烈的支持者のみだったという。
 しかも検閲で発禁となった出版物も「地下出版」として密かに読まれ、その人気は衰えることがなかった。それでも公言すれば収容所送りか粛清となるために、だれも批判できなかったというだけだった。
 このことから、「ソ連はプロパガンダが下手だったのではないか」という疑念もいまだ根強い。

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