太平洋戦争はこうしてはじまった㉞

陸軍統制派と皇道派の対立

 
 日本陸軍の歴史は派閥抗争の歴史でもある。明治時代の陸軍は、長州藩の流れを組む長州閥と薩摩藩から派生した薩摩閥に別れ、大正時代から昭和初期は宇垣一成陸相を中核とする宇垣閥が実権を握っていた。そうした中、永田鉄山らの陸士グループによって1929年春に結成されたのが一夕会である。満蒙問題の解決と荒木貞夫、真崎甚三郎の擁立による国内問題解決を目指し、メンバーには東条英機、山本奉文、石原莞爾など、のちの戦争や事件に携わる人材も参加していた。
 一夕会の支援で満州事変は実行に移され、満州国は建国される。1931年末の荒木陸相の誕生で目的はおおむね達成されたのだが、次に問題となったのは会内の派閥争いだ。一夕会は一枚岩でなく、国家改造に対する思想にはメンバーごとに開きがあった。最も顕著だったのは、永田鉄山の派閥と小畑敏四郎の派閥の対立だ。
 永田は独伊の全体主義を参考としつつ、国家総動員体制による天皇治下の統率国家建設を目指した。当初は非合法手段も是としていたが、やがて政治介入による国家改造に舵を取った。一方、小畑は皇道精神主義を掲げ、荒木や真崎を中核とした天皇主体の国家維新を目的とした。
 満州事変直後までは、建国成功を優先したので対立は表面化しなかったが、事変後に荒木が身内びいきの人事を行ったことで、永田派の将校の不満が高まる。荒木は1934年に陸相を辞任するが、後釜の林銑十郎の真崎・荒木派排撃により、両派閥の対立は決定的なものとなる。これ以後、青年将校を中心とする皇族主義の派閥は「皇道派」、中堅幕僚の国家改造派閥は「統制派」と呼ばれ、抗争は激化していくことになるのだ。
 1934年11月20日には、青年将校がクーデター疑惑で摘発される「陸軍士官学校事件」が発生。皇道派の磯部浅一大尉と村中孝次一等主計らが首謀者として逮捕免官となり、その後も林は軍務局長となった永田と合同で皇道派の左遷を進めていく。統制派の攻撃に皇道派も黙っておらず、翌年8月12日には真崎の罷免に対する報復として永田が陸軍省内で斬殺されている(相沢事件)。
 事件の責任を理由に林は辞任を表明し、後任の川島義之は中立派だったが指導力に欠けていた。だが、政府内での統制派の優勢は崩れることはなく、皇道派は一か八かのクーデターの決行を決断。こうして勃発した事件が、のちに「二・二六事件」と呼ばれる反乱未遂事件である。

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