太平洋戦争はこうしてはじまった57

日米首脳会談構想の破綻


 経済制裁を科された大日本帝国に、残された道は2つ。アメリカの要求を呑み南方・大陸から撤退するか、一か八かの対英米開戦をするかだ。
 1941年8月4日、近衛文麿首相は陸海相立ち合いの場で日米関係の打開案を相談した。それは、近衛がアメリカ大統領と直接面談し、外交的解決を試みるという手段である。いわゆる「日米首脳会談構想」だ。
 近衛は会談に対して「つくすだけの事をつくす」としている。これはアメリカ側の条件を全て呑む決意を表している。陸海軍の反応について、近衛は回顧録で「海軍は賛成、陸軍は不賛成」と記している。実際は即答を控えただけで、翌日に陸軍も文書で賛成を示している。
 一方、会談に反対する将校もいた。その一人である作戦部長田中新一少将は、仮に会談が成功しても一時しのぎに過ぎず、アメリカの軍備が整うまでの時間稼ぎに付き合うようなもの、とみたのである。陸海軍としても、会談の成功を念頭に入れつつも、交渉決裂時に備えて戦争計画も進めるという両論並立の態度を取っていた。
 8月16日、陸海軍部局長会議にて「帝国国策遂行方針」が提示された。大まかな内容は、戦争準備と外交解決を併進させる一方で、10月中旬までに外交決着が付かなかった場合、実力発動の措置を取るというものだ。これを原案とし、9月6日の御前会議に成立したのが「帝国国策遂行要領」である。
 またこのとき、田中は会談成功による事態の予測を日記に記し、9月15日付の記述では首相渡米に関する随員の人選も予想していた。このように、9月の時点だと軍部は開戦を覚悟しつつも、和平への期待も残していたのである。
 しかし首脳会談は開催されなかった。近衛の要望にアメリカが回答したのは10月2日。それによると、首脳会談は時期尚早であり、まずは事務方で基本問題の合意を成してからだと答えていた。事実上の開催拒否だ。
 そもそもアメリカは南部仏印進駐以降、交渉を事実上打ち切っており、8月7日に初めて首脳会談の実施を日本が申し入れた際も、「政策に変更なく限り話し合いの根拠なし」と拒絶されている。
 この会談拒否には、日本への宥和を危惧するホーンベック極東部顧問の意見が強く影響したといい、この返答で会談による打開を狙った近衛の計画は、事実上崩壊したのだった。

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