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知られざる太平洋戦争のドラマ⑩

沖縄戦線、義烈空挺隊の飛行場突入

マリアナ攻撃を想定した特攻部隊

沖縄戦は特攻の見本市とも言うべき、数多くの兵器や作戦が見られた戦いだった。その大半は微々たる戦果しかあげられず、戦艦「大和」の突入作戦ですら、一矢報いることはかなわなかった。
それでも、中にはアメリカ軍に多大な混乱を引き起こした特攻隊もいた。その特攻隊とは、なんと空挺部隊であった。
マリアナ諸島の爆撃機地を攻撃するために、日本軍は硫黄島を中継点とする逆空襲を幾度か実施していた。長距離攻撃は1944年11月2日から続けられたのだが効果は薄く、大本営では落下傘部隊による基地壊滅作戦が代案として台頭してきた。
この案はやがて飛行機ごと強行着陸する作戦に変更され、誕生したのが「義烈空挺隊」である。
こうした経緯からもわかるように、当初の義烈空挺隊は、マリアナ攻撃を想定した部隊であった。

飼い殺し状態の「愚劣食放題」

本土の空挺部隊と研究機関の属する「挺進演習部」(のちに挺身集団)は、同年11月27日に部隊の選抜を命令される。その結果、第一挺進団の「第一連隊第四中隊」と各中隊から選抜された126人が、この任務についた。
当初の部隊は「神兵皇隊」と命名され、陸軍中野学校から進出した10人の諜報員も加わり、豊岡の基地にて「B-29」の爆破工作訓練を受けていた。
12月17日には部隊名も義烈空挺隊に改称され、出撃も12月24日に決定。翌年に出撃は延期となったものの、そのあいだにサイパン基地まで運搬する「第三独立飛行隊」の準備と各偵察写真の解析はほぼ終わり、1945年1月18日に浜松基地から出撃するはずだった。
だが、硫黄島の戦いがはじまったことで陸海軍の興味は同島の防衛に移り、マリアナ攻撃は中止。一時は硫黄島戦への投入も考案されたが、これも取りやめとなり、隊員たちは飼い殺しにされる状況に部隊名をもじって、「愚劣食放題」と自嘲したとまでいわれている。

飛行場無力化を目指した「義号作戦」

義烈空挺隊が本土に止め置かれるあいだにも戦局は悪化を続け、4月1日より沖縄本島にアメリカ軍の上陸がはじまった。
沖縄守備隊の内陸持久方針により、本島の北・中の両飛行場は早々に占領されてしまい、陸海軍は何度も航空隊による攻撃を実行。が、敵を混乱させても基地機能の壊滅には至らなかった。
そこで期待を寄せられたのが、義烈空挺隊だ。
沖縄方面の航空作戦を担う「第六航空軍」は、両飛行場の無力化には空挺隊での直接制圧が効果的と考える。そして義烈空挺隊の指揮権を握る大本営との交渉の末、沖縄戦への投入許可を得た。
こうして5月18日に認可を取り付けた「義号作戦」の内容は、次のようなものである。
まず部隊を搭乗させた合計12機の航空機が両飛行場に強行着陸し、敵機、施設、軍需物資を可能な限りに破壊。同時期に決行予定の航空特攻を支援する。
突入後は遊撃隊として沖縄に残留することを義務付けられた、まさに生きては帰れぬ空挺特攻作戦であった。

わずかな人員で3日間の無力化に成功

出撃は23日の予定が天候不順で翌日に延期はしたが、今度は中止命令が出ることはなかった。
陸軍航空隊による準備爆撃も予定通りに終わり、指揮官の奥山道郎大尉以下136名の空挺隊は午後6時40分ごろ熊本の健軍飛行場から出撃した。
司令部に突入開始の連絡が入ったのは、出撃から約3時間半後のこと。視察のため同行した飛行隊からも、北で4個、中で2個の着陸をしめす信号があったと帰還後に報告されたことで、半数の突入成功は、まず確実と見込まれた。
飛行場からは通信が暗号化されずに飛び交い、基地での異変や航空機の島外退避を知らす内容に、司令部は攻撃の成功を推測したのである。
具体的な活躍については、機体トラブルで帰還した4機の乗員をのぞく全員が戦死したので、司令部はわからずじまいだった。だがアメリカ軍の資料には、突入した兵の活躍が記されている。
アメリカ側の情報によると、突入に成功したのは1機だけだった。その1機は北飛行場に胴体着陸すると、12人の隊員が基地に攻撃を仕掛けた。
この奇襲によって基地内は大混乱におちいり、手榴弾や焼夷弾で戦闘機をふくむ7機から9機の米軍航空機が破壊され、29機が損害をこうむった。
基地の炎上でドラム缶600本分ものガソリンも失われ、20人のアメリカ兵が死傷したのである。
12人は夜明けまでに全員戦死したが、突入隊の全滅を確認して安全宣言が出されたのは27日。義烈空挺隊は、わずかな人員で3日間も飛行場を無力化したのだった。
残念なことは、決行予定の特攻作戦が天候不良で小規模になってしまい、このチャンスを活かせなかったことだろう。
空挺隊による特攻作戦はその後も何度か計画されたが、終戦によって実行されることはなかった。

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