太平洋戦争はこうしてはじまった㊴
強化されてゆく陸軍の政権支配
広田内閣が推し進めた政策の目玉は、軍事の優先だ。当時はワシントンとロンドンの軍縮条約がともに失効され、極東ソ連軍も戦力を増強。満州方面の軍事バランスは、不安定な状態になっていた。これらに対抗するべく、日本軍は1936年に「帝国国防方針」の改訂に着手する。
国防の基本戦略を定めたこの方針は1907年に策定され、1918年と23年にも改訂されている。36年の改定では、米英中ソを仮想敵国としつつ、長期・短期戦の両方に対抗するべく陸軍は戦時兵力を50師団、海軍でも戦艦12隻、空母12隻を所有することになる。従来の改訂とは違い、今回は議会を通していない。改訂作業には外務大臣が参加していたが、方針に影響を与えた痕跡は薄い。まさに当時の政府と軍部のパワーバランスを表しているといえよう。
独伊との接近が本格化したのもこの頃だ。同年11月25日、日本はドイツのヒトラー政権と「日独防共協定」を結んでいる。ドイツは日本と同じく国際連盟を脱退しており、国際的孤立の回避のため接近するべきと日本陸軍は主張していた。ソ連を仮想敵としている点でも利害が一致していたことから、両国は協定締結に踏み切ったのだ。
この協定は、翌年にイタリアを加えて「日独伊防共協定」となる。ただ、のちの三国同盟とは違い、この時点では相互協力の確認に過ぎない。また、ハンガリーやスペインものちに加入し、イギリスにも加入が提案されるほど、流動性の高いものだった(イギリスは加入を拒否)。
こうして軍国化への布石を打った広田内閣も、政友会と陸相の対立で1937年2月2日に総辞職。元朝鮮総督の宇垣一成大将に組閣の大命が下った。政党と軍部の両方に顔が効き、陸軍の政策に批判的な宇垣であれば政権の安定化が可能と期待されたのだ。
当然、陸軍にとっては納得できるものではない。そこで陸軍は現役武官制度を悪用した。陸軍大臣を出さないことで、組閣を阻止しようとしたのである。
陸軍の方針に従い、寺内寿一陸相は留任要請を拒否。杉山元、小磯国昭も宇垣の就任要請をことごとく固辞していく。三長官会議による陸相推薦も断られ、ついに宇垣は首相と陸相の兼任をも検討しはじめた。ただ、予備役での兼任は現役武官制の復活で不可能となっている。起死回生の現役復帰工作も失敗に終わり、結局は組閣を断念せざるをえなかった。陸軍の政治主導と軍国化は、もう覆せない段階にまで来たのである。
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