武器を使わない情報戦―プロパガンダ㉘

世界的な日本批判を導いた中国国民党の宣伝戦

覆された中国の開戦責任論

 盧溝橋事件に端を発し、第二次上海事変で全面戦争に発展した日中戦争。この戦いで欧米の敵意は決定的になったというが、緒戦に限ればそうではなかった。やはり遠く離れたアジアの出来事であるし、むしろ中国の開戦責任を問う声も少なくなかったのだ。
 実際、1937年8月15日付の「NYタイムズ」では、中国軍機による上海爆撃を大々的に報じ、31日付の記事では意見が分かれると前置きしたうえで、「中国が衝突に追い込んだ」とやや日本寄りの意見を出していた。アメリカ国務省も、上海の戦闘は外国への宣伝効果を狙う中国の陰謀と認識。日本が世界の信用を得る機会は、十分にあったといえる。
 しかし、列強国が最終的に選んだのは中国だった。そこにはやはり、中国国民党によるプロパガンダが隠されていたのである。
 中国国民党は第二次上海事件の直後から、中央宣伝部を中心としたプロパガンダ戦を展開。標的は欧米、とくにアメリカだ。対外宣伝の基本方針は、欧米に日本の侵略行為を宣伝しつつ、大陸の欧米権益破壊と残虐行為を強調し、正義に即した援助を求めるというものだった。

メディアに扇動されたアメリカ国民

 利用されたのが、日本の渡洋爆撃である。8月13日から始まった第二次上海事変において現地部隊と居留民を支援するべく、日本海軍は翌日より台湾と九州各基地から支援爆撃を実行。攻撃そのものは成功したのだが、かえって冷ややかな欧米の反応を招いてしまう。国際連盟総会は都市部への爆撃行為を無差別攻撃と捉え、9月28日に日本への非難決議を全会一致で採択したのである。
 中国は、この悪評を存分に利用した。爆撃の法規違反をアピールするとともに、爆撃による民間人への被害を強調したのだ。そこで活用された手段が、新聞、映画、写真誌。一方のアメリカ側のメディアも、部数や注目度を目的として積極的に乗っかるようになったのだった。
 そんな中国の態度を代表する1枚が「上海の赤ん坊」だ。中国系ジャーナリスト王小亭によって上海近郊の駅で撮影されたというこの写真は、破壊された駅の廃墟で赤ん坊が一人泣き叫んでいる姿を写したものだ。
 もともとはニュース映画の一場面だったが、アメリカの写真誌「ライフ」10月4日号に掲載されると瞬く間に反響を呼び、アメリカ中に反日世論が巻き起こった。中国によるヤラセという説もあるが、「読者の選ぶ1937年ニュース物語ベスト10」に選ばれるほど、米国民を動かしたことは事実である。

プロパガンダによる大衆世論に負けた日本

 また、ラジオでは蒋介石の妻、宋美齢による宣伝が展開。9月11日には南京からアメリカに向け、日本の侵略による被害を訴えた。
 流暢な英語で行われた放送の影響は大きく、ニュース雑誌「タイム」の1938年1月3日号は蒋介石を「20世紀のアジアにおいて最も偉大な人物になるだろう」と紹介。この号を含めて4回以上も表紙に登場させている。
 歴史家バーバラ・タックマンによると、上海戦前後のプロパガンダ以降、アメリカ人の多くは「堅忍不抜の総統」に統一された中国をイメージし、戦争理由も民主主義のためだと思い込んだ。当時の中国は民主主義からは程遠い国民党の一党支配だったというのに、蒋介石は見事に欧米を騙しきったといえよう。
 当然日本も反論していたが、アメリカ国民は聴く耳を持たなかった。そもそも、アメリカの人々は日本の大陸進出に晒される中国に同情的となっており、中国の租界で生まれ育った者も少なくなかった。プロパガンダ本格化前の1937年8月時点でも、アメリカ世論では中国支持が43%、中立意見が55%だったのに対し、日本支持はたったの2%しかなかった。
 冷静だったのは政府や報道の上層部のみで、国民は最初から中国寄りだったといえる。そして民主主義社会では、世論を無視しきることはできず、爆撃への拒否感もあり、アメリカ政府も中国支持に傾いていく。
 こうした世論を利用すると同時に、中国は自軍の過ちを日本軍に押し付ける宣伝もした。つまりは民間人への誤爆や堤防決壊作戦などを、すべて日本の仕業としたのだ。
 これにはさすがに「NYタイムズ」などからも捏造指摘が入っていたが、熱狂する世論の中では焼け石に水だった。やがて米英を中心とする中国支援が決定し、戦争は膠着状態に陥っていく。まさしく宣伝戦では、中国は日本より一枚も二枚も上手だったのである。

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