太平洋戦争はこうしてはじまった㊼

秘密裏に進められたタムスク空襲

 
 山県支隊が撤退中の1939年5月30日、陸軍中央部は早くも祝電を関東軍宛てに送っている。増派と資材供給の要請には極力応える旨も伝えられ、満州防衛への強い意思を見せたのである。しかし、対ソ本格開戦までは望んでいなかった。参謀本部が5月31日に策定した「ノモンハン国境事件処理要綱」でも、ソ連本土への越境爆撃は認めていない。
 第二三師団本部のハイラルが攻撃されても、迎撃以上の行動を許可していないほどだ。要綱は関東軍に伝達されてはいなかったが、空爆禁止の意向は常に伝えられていたという。当時の陸軍の関心は、停滞した日中戦争の早期解決だった。戦力の大半を中国戦線に取られている現状、対ソ戦線まで抱える余力はない。それゆえ、大衝突を招きかねない越境攻撃には否定的だったのである。
 そうした日本側の事情をソ連がくむはずもなく、日本軍の撤退直後より防衛体制を固めていた。6月19日には、カンジュル・アムグロの日満陣地を空爆。備蓄物資や燃料の大部分を焼き払う。第二三師団はソ連軍への反撃を関東軍に提案。関東軍司令部内では一時意見が分かれたが、参謀辻政信少佐の強硬論に押されて対ソ反撃を決定した。
 戦車に苦戦した先の敗北の反省から、今回は戦車野砲装備の安岡支隊が編成された。21日には参謀本部と陸軍省内でも議論が起きたが、板垣征四郎陸相の「一個師団程度でやかましく言うな」という一言で容認に傾き、野戦重砲二個連隊の増派も決定している。
 ただし、陸軍中枢が懸念したのは国境内での反撃であった。これに対して関東軍は、航空爆撃によるタムスクのソ連空軍基地への越境攻撃を計画したのである。当然ながら、参謀本部には秘密裏に進められていた。
 6月24日、第四課長片倉衷中佐から作戦を聞き出した参謀本部は作戦中止を促すが、関東軍は空爆を27日に強行。119機による奇襲攻撃でソ連空軍は149機を失った。対する日本軍の未帰還機は4機のみという大勝だった。しかし戦果報告をした関東軍に、参謀本部作戦課長の稲田正純大佐は「バカ、戦果が何だ」と怒鳴ったという。
 29日には、上奏裁可の大陸命で越境攻撃の停止を命じたようとした。天皇の命を参謀総長が伝達するという、最も強い陸軍命令だ。ただ、部隊の撤収を言明はしなかったがために、関東軍の押さえ込みは不十分に終わった。かくして日ソはハルハ河にて再び相まみえ、「第二次ノモンハン事件」がはじまったのである。

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