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「伝統に基づいた家族制度」のウソ

明治政府が強制した家父長制度

おじいちゃんとおばあちゃんがいて、息子夫婦が同居し、子どもたちがいる。そんな三世代同居を理想とする考え方がある。テレビアニメ「ちびまる子ちゃん」の家族のようなものか。
みんなが1つのテーブルを囲み、その日あった出来事などを話して団欒する。そこから家族の絆が生まれ、ひいては社会にも貢献する。すなわち、家族という社会を構成する最小の共同体が良好であれば、地域や自治体といった広範囲にも影響を及ぼし、結果として国家も安定するというわけだ。そこから謳われがちなのが、「伝統に基づいた家族制度」である。
しかし、「家族」という言葉が用いられ始めたのは、江戸時代末期から明治時代になってからという説が有力で、しかも当初は法令用語か学術的な言葉であった。庶民が日常的に使い始めたのは、明治時代半ばから終わりごろにかけてと考えられる。ただ、明治時代までにも家族の概念は存在した。ただしそれは、現在でいう家族とは若干様子が異なる。
家族は血縁者の集まりというのが、今の感覚だろう。「家族を大切にする」というのは、そこに属する人たちを大切にすることだ。だが、かつては「人」ではなく、「家」という組織を守ることを重要視した。
そのため、世継ぎがいない、いても能力に乏しい場合は養子を迎えることも多かった。血縁者にしても、大名や公家は一夫多妻制が普通だったので、父親は同じでも母親は別という、血縁関係の薄い兄弟姉妹が多数いたのだ。
相続に関しても、嫡子(正妻の長男)による単独の相続が基本となったのは江戸時代から。鎌倉時代には分割相続もみられ、室町時代に嫡子単独相続が多くなるも制度として確立されていなかったこともあり、数々の「お家騒動」が起きている。
ただし、分割相続であっても本家が分家を支配統率するという「惣領制」があり、一族の結束を強めていた。とはいえ、あくまでも一族の結束である。血で血を洗う戦国時代には、主が無能だと自分たちの命にもかかわる、ということで、相続した本家の当主を家臣が廃絶し、分家などからの当主を立てた例もある。また、断絶した家を他家のものが受け継いだ例もある。
江戸時代になると、家の主が独占的に統率権を持つという「家父長制度」も定着する。江戸時代の武士の基本理念は朱子学に基づく。朱子学には子どもや女性は一家の主である男性に従えという教えがあり、主人は家族や家来を支配する。この権利を「家督」という。
ただし、主人は家を継承していく義務があるため、資産の売買など自分勝手な行動は許されない。もし犯罪などの不始末があった場合、家は幕府や領主によって廃絶されたり、武士身分を取り消されたりしてしまう。したがって、主人は家の代表者でしかなく、武家の生殺与奪は、その家の所属する藩や幕府が握っていたのだ。
武家の風習は農民や町民にも広がっていく。ただし、農村でも庄屋などの富裕層は家を大切にしたが、一般農民は家よりも地域を重視とした。田畑があれば別だろうが、小作人であれば相続といっても受け継ぐ財産に乏しいので、誰に譲ろうともさほど問題にはならなかったのだ。さらには末子に家督を譲り、長子は江戸などの都会へ奉公に出す家もあった。
また、町の商家ではすすんで養子を受け入れたという。各家で俸禄が決められていた武家と違い、商人の財産は一から築き上げてきたものだ。そんな大切な財産を、いかに自分の子どもといえども簡単に譲り渡すわけにはいかない。嫡子に商才があればいいが、遊び好きな放蕩息子だと家をつぶしかねない。
そこで、あまり出来が悪ければ縁を切って、番頭などに家督を譲り、商いを継がせる。そのため商家では、男の子よりも女の子の誕生を望んだ。女の子なら、成長して養子を迎えるのが容易だったからだ。
この家父長制度を法律で規定し、国家的な規範としたのが明治新政府だ。
明治31(1898)年に施行された民法には732条で「戸主ノ親族ニシテ其家ニ在ル者及ヒ其配偶者ハ之ヲ家族トス」とあり、これは一家の主(戸主)と同じ家にある親族、その配偶者を家族とすると定める。この「家」は住居ではなく、戸籍のこと。また、747条で戸主に家族の扶養を義務付ける一方、原則として家督を全て相続するとなっている。
戸主になるには970条で定められた順位があり、第1位は「戸主の直系卑属(子・孫)のうち親等の最も近い者が優先」、第2位は「親等が同じ場合は男が女に優先」とあるため、姉がいたとしても当然にして長男が戸主になる。
この明治時代の家族制度は江戸時代の家父長制度と異なり、戸主に家を守る義務はない。職業を変えることも、引っ越しをすることも、資産を売却するのも自由だ。つまり、中世に始まり江戸時代に定着した家父長制度は、より緩い形となって家族制度として受け継がれ、しかも全国民に強制したのである。
この制度を政府が国民に強いたのには訳がある。明治政府は、それまでの幕藩体制からの脱却を目指した。つまりは中央集権化である。そのために、天皇を頂点としたピラミッド型の社会体制を構築。末端組織が家族というわけだ。
家単位の戸籍を作り、役所は家という単位で住民の状況を把握する。戸主は家族における様々な権利を有する反面、租税などの義務も負う。個人を単位とするよりも、国からの上意下達がスムーズになるのだ。
さらに、戸主に財産を独占させれば、次男や三男らは生活に困る。結婚して家を出て新たな戸籍を作ることも可能だが、そう簡単にできるものでもない。当時の国民はほとんどが農民なので、土地を相続できなければ小作人になるか働き口を求めて都会に出るしかない。
明治初期における重要な国策は「殖産興業」と「富国強兵」だ。この2つに戸主以外の男子は役立った。すなわち、工員として働くか軍隊に入るかだ。家族制度によって労働力と兵力を確保した明治国家は、さらなる近代化を推し進めてくことになるのだ。法律で定められた家族制度が廃止されるのは、戦後になって憲法と新民法が施行されてからである。
それでも、いまだに長男を跡継ぎとし、女性は結婚して家に納まるべきという考え方は根強く残されている。親の介護にしても、戸主の扶養義務を肩代わりする女性に押し付けられる。そして、この家族制度を、いまでも国民生活の理想とする人たちは多い。
日本は「家族国家」であるとし、「家族制度の崩壊は国家の危機である」とまで言い切る保守系議員や右派論客もいる。しかし、そんな人たちが理想とする3世代同居は、大正9(1920)年のデータでも、わずか26%あまり。すでに核家族化は始まっていたのである。
家族が仲良く暮らすことに異存はない。だからといって、家族制度で個人の権利が蔑ろにされるのはいかがなものか。ちなみに、今でも普通に使われる言葉に、家族制度の名残がある。それは「入籍」。結婚することを「入籍する」「籍を入れる」と口にする人は多いが、現在の民法では戸籍は結婚で新しく「作られる」もの。決して夫の戸籍に「入る」ものではない。

「日本人が大切にしてきた伝統のウソ」(河出書房新社)より
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