『神と悪魔の薬 サリドマイド』を読む:ドラッグ・リポジショニングの魁
2016年08月01日、『サイエンスZERO』「No.551 創薬が変わる! ドラッグ・リポジショニング(2016年07月31日放送)」(以下同番組)を録画して視聴した。
ドラッグ・リポジショニングは、ヒトでの安全性や体内動態が確認されている既承認薬において、新たな薬効を見いだし、別の疾患に対する治療薬として開発する手法である。
既に臨床試験が実施されている医薬品なら、その過程で安全性が検証されているため、新たな適応に対する有効性を証明すればよい。そのため、ドラッグ・リポジショニングによる医薬品開発では、探索研究や前臨床試験といった基礎研究を省略・簡略化でき、開発コストを圧縮できるとされる。複数のベンチャー企業などがドラッグ・リポジショニングによる医薬品開発を進めている(1)。
同番組に触発されて、私は『神と悪魔の薬 サリドマイド』(以下本著,2)を読んだ。
本著は、ドラッグ・リポジショニングの魁となった薬であるサリドマイドについて言及している。
内容は概ね以下の通りである。
第2次世界大戦終戦からそれほど時間が経過していない1950年代のヨーロッパ諸国では、抗不安薬や睡眠薬の需要が多く、サリドマイドもこうした背景の下で鎮静・催眠薬として作り出された(2のp.15-20)。
1950年代では、サリドマイドの製造元であるグリュネンタール社に限らず、臨床試験が極めて杜撰に実施されていた(2のp.20-34)。
1956年以降、サリドマイドはサリドマイド禍という名の世界規模の薬害を引き起こしてきた。その一方で、米国では、米国食品医薬品局(FDA)の審査官であるフランシス・ケルシー(以下敬称略)の奮闘により、サリドマイド禍は最小限に抑えられた。
この件を契機にして、FDAは医薬品の安全性を重視し続けている(2のp.34-101)。
サリドマイド禍は、多数のサリドマイド被害者を生み出しただけでなく、その親族に悲劇も与えた(2のp.103-160)。その一方で、サリドマイド被害者や親族の中には、こうした悲劇を乗り越えている人もいる(2のp.177-191)。
サリドマイド禍を受けて、FDAは医薬品の価格引き下げよりも、安全規制を重視することになった(2のp.161-175)。そして、1961~1962年にかけて、サリドマイドの販売が停止された(3)。
2012年08月31日、グリュネンタール社はようやくサリドマイド禍に関して謝罪した(4,本著の出版年である2001年では、まだ謝罪していなかった)。
1964年以降、サリドマイドがらい性結節性紅斑に対して有効であることが分かってからは、その有効性が見直されるだけでなく、その機序も明らかになった(2のp.193-175,5)。
また、サリドマイドは多発性骨髄腫にも有効であることが分かっており、現在では再発または難治性の多発性骨髄腫の治療薬として使用されている(2のp.230-258,6)。
サリドマイドによる血管新生抑制の機序が明らかになることで、サリドマイドに代わる物質の発見に繋がった(2のp.259-279,7)。実際、既にサリドマイド誘導体であるレナリドミド(レブラミドⓇ)とポマリドミド(ポマリストⓇ)は多発性骨髄腫の治療薬として使用されている。なお、いずれも催奇形性を有する(8)。
一方、サリドマイドはp63というタンパク質の分解を誘導することで手足や耳の発生を阻害していることがゼブラフィッシュのモデル実験系により明らかになった。なお、サリドマイドはサリドマイド標的タンパク質であるセレブロンに結合し、その働きを乗っ取ることで、p63の分解を誘導する(9)。
また、サリドマイドが壊疽性膿皮症(10)に対しても有効であることが分かった(2のp.281-298)。
本著から、サリドマイドは催奇形性という重大な副作用により販売停止されたが、その副作用と関連する血管新生抑制作用を含む様々な作用により、再発または難治性の多発性骨髄腫の治療薬として使用されていることが分かる(11)。また、近年、アフタ性口内炎、ベーチェット症候群、HIV感染者の口腔/食道潰瘍、粘膜皮膚の移植片対宿主病、全身性エリテマトーデス患者の皮下組織病変など、複数の炎症性疾患の治療に用いられるようになっている(2のp.299-316,12)。
これから、サリドマイドがドラッグ・リポジショニングの魁となったことがよく分かる。
ここで、サリドマイドの化学構造を示す。
サリドマイドには1つの不斉炭素原子が存在する。そのため、アミノ酸と同様、右手型(D体、R体)と左手型(L体、S体)の鏡像異性体が存在する(図01,02)。左手型鏡像異性体にだけ催奇形性があり、右手型鏡像異性体は奇形を誘発しない。この報告は医薬品開発における鏡像異性体の薬効の差異を認識させ、そして、不斉合成(鏡像異性体の片方のみを選択的につくる技術)発展に大きく寄与した。
しかし、1990年代になって、サリドマイドの鏡像異性体は人体で容易にラセミ化し、右手型および左手型の平衡混合物に変化することが分かった。即ち、安全な右手型サリドマイドを用いても体内でラセミ化するため、薬害は回避出来なかったと推察される。現在、サリドマイドがラセミ体で発売されている理由の1つはこれに由来する。
一部ラセミ化した様々な光学純度の右手型サリドマイドを用いて、その自己不均一化現象が起こるか調べたところ、水や緩衝液中では1時間も経たないうちにラセミ体の結晶部分と光学純度の高い(エナンチオマー(光学異性体)過剰率98%)右手型サリドマイドの溶液部に分離する自己不均一化現象が観察された。さらにこの実験を何度も繰り返すことで、生体内でも自己不均一化現象が起こっている可能性が高いことが示された。溶解度調査の結果、ラセミ体サリドマイドは右手型サリドマイドよりも5倍以上も溶解性が低いことが分かった。また、X線結晶構造解析の結果と組み合わせることで、サリドマイドが生体内で自己不均一化現象を起こすことも分かった(13)。
(a)右手型(D体、R体)。奇形を誘発しない。
(b)左手型(L体、S体)。催奇形性がある。
図01.サリドマイドの構造式。
ChemSketchを使用して作成。
(a)右手型(D体、R体)。奇形を誘発しない。
2019年11月23日、「理化学研究所大阪地区一般公開2019 14.コンピュータシミュレーションで見る生体分子の世界」で、株式会社 タロウ(福島県郡山市)製 分子構造模型 モル・タロウを用いて作製した。
(b)左手型(L体、S体)。催奇形性がある。
画像(a)をAdobe Photoshop Elements 2019を使用して画像反転させた。
図02.サリドマイドの分子模型。
青丸:炭素、赤丸:酸素、緑丸(大):窒素、緑丸(小):水素、水色または透明のパイプ:一重結合、群青色のパイプ:二重結合。
一方、サリドマイドの水素の1つをフッ素に置き換えることで、フルオロサリドマイドが合成された。フルオロサリドマイドはラセミ化が起こらないことが分かった。
多発性骨髄腫細胞株H929の細胞死誘導に関しては、右手型は非常に強く、左手型は強い。腫瘍壊死因子α産生抑制に関しては、右手型はさらに強く、左手型は強い。しかし、いずれの型も血管新生を促すので、催奇形性を示さない(14)。
サリドマイドがもたらした功罪、および、サリドマイドがドラッグ・リポジショニングの先駆けになったことを知るためにも、本著はまさに有用な書籍である。
参考文献
1 株式会社 日経BP.“ドラッグリポジショニング”.日経バイオテク トップページ.連載.キーワード.2020年03月02日.https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/011900001/20/02/27/00309/,(参照2020年11月07日).
2 トレント・ステフェン著,ロック・ブリンナー 著,本間徳子 訳.神と悪魔の薬 サリドマイド.第1版第1刷,株式会社 日経BP,2001年12月21日,320p.
3 公益財団法人 いしずえ サリドマイド福祉センター.“サリドマイド事件-事件の概要/被害の実態”.公益財団法人いしずえ サリドマイド福祉センター ホームページ.http://ishizue-twc.or.jp/thalidomide/damage-01/,(参照2020年11月05日).
4 株式会社 クリエイティヴ・リンク.“サリドマイド薬害の独製薬会社、50年の沈黙を経て謝罪”.AFPBB News トップページ.ライフスタイル.ヘルス.2012年09月02日.http://www.afpbb.com/articles/-/2898685?pid=9448906,(参照2020年11月05日).
5 藤本製薬株式会社.“サレドⓇカプセル ~ENL治療にあたって~”.藤本製薬株式会社 トップページ.医療関係者の皆様.医療関係者向け医薬品情報.サレドⓇカプセル 25・50・100.製品情報.2014年08月改訂(第2版).http://www.fujimoto-pharm.co.jp/jp/iyakuhin/tl/pdf/thaled(14-0829-1)_ENL.pdf,(参照2020年11月05日).
6 藤本製薬株式会社.“添付文書”.藤本製薬株式会社 トップページ.医療関係者の皆様.医療関係者向け医薬品情報.サレドⓇカプセル 25・50・100.製品情報.2019年02月改訂(第10版).http://www.fujimoto-pharm.co.jp/jp/iyakuhin/tl/pdf/thaled_tenpu.pdf,(参照2020年11月05日).
7 国立大学法人 九州大学.“サリドマイド”.九州大学大学院 医学研究院 臨床薬理学分野 トップページ.教室について.教授挨拶.エッセー.http://www.med.kyushu-u.ac.jp/clipharm/about/pdf/essay041120.pdf,(参照2020年11月05日).
8 セルジーン株式会社.“レブメイト® レブラミド・ポマリスト適正管理手順 ホームページ”.http://www.revmate-japan.jp/patient/,(参照2020年11月05日).
9 国立大学法人 東京工業大学.“サリドマイドが手足や耳に奇形を引き起こすメカニズムを解明 安全なサリドマイド系新薬の開発へ”.東京工業大学 トップページ.東工大ニュース.2019年10月08日.https://www.titech.ac.jp/news/2019/045379.html,(参照2020年11月05日).
10 公益財団法人 難病医学研究財団/難病情報センター.“化膿性無菌性関節炎・壊疽性膿皮症・アクネ症候群(指定難病269)”.難病情報センター ホームページ.診断・治療指針(医療従事者向け).2020年08月.http://www.nanbyou.or.jp/entry/4796,(参照2020年11月05日).
11 厚生労働省.“「多発性骨髄腫に対する適正使用ガイドライン」,1~19ページ”.厚生労働省 ホームページ.報道・広報.報道発表資料.報道発表資料 2004年12月.「多発性骨髄腫に対するサリドマイドの適正使用ガイドライン」について.2004年12月10日.http://www.mhlw.go.jp/houdou/2004/12/dl/h1210-2a1.pdf,(参照2020年11月05日).
12 株式会社 日経BP.“小児難治性クローン病にサリドマイドが有効 治療抵抗性患者への投与で6割以上が臨床的寛解に、初のRCTの結果”.日経メディカル ホームページ.医師TOP.特設サイト.海外論文ピックアップ.海外論文ピックアップ JAMA誌より.2013年12月11日.https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/hotnews/jama/201312/533912.html,(参照2020年11月05日).
13 国立大学法人 名古屋工業大学.“サリドマイドパラドックスを説明 ~鏡像異性体を持つ医薬品の使用に警鐘~”.名古屋工業大学 ホームページ.News&Topics一覧.プレスリリース.2018年11月20日.https://www.nitech.ac.jp/news/press/2018/7114.html,(参照2020年11月06日).
14 国立大学法人 名古屋工業大学.“ラセミ化しないサリドマイドの開発~フッ素が拓く創薬~”.名古屋工業大学 ホームページ.News&Topics一覧.プレスリリース.2017年08月01日.https://www.nitech.ac.jp/news/press/2017/5887.html,(参照2020年11月07日).
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