絵本で読む「働くこと」【2】|エンカレッジされるセミくんと、ケチャップマンの現実
いやぁ、夏ですね。セミの季節です。
前回とりあげた『ぐるんぱのようちえん』(福音館書店、1965)の冒頭に描かれる森の仲間たちの振る舞いが、実はとても1960年代的だと気づかされたことを書きました。
そのキッカケはこの本(図1)を読み聞かせていたときのこと。工藤ノリコの名作セミ絵本『セミくんいよいよこんやです』(教育画劇、2004)です。
図1 セミくんいよいよこんやです
セミが主人公のこの絵本。娘も大のお気に入りですが、これがなかなか泣けます。セミの健気さに泣けるのです。
セミくんいよいよこんやです
話は主人公セミくんの羽化当夜から始まります。長年住み慣れた「おうち」にカブトムシさんから電話が。「そうですいよいよこんやです」「そうかい、いよいよこんやかい!」ということで、カブトムシさんは、スズムシさん、ミツバチくん、アオムシちゃん、ホタルさんに号令をかけて、セミくんの羽化パーティーを盛大に開きます。
いよいよだ。
さよならおうち、ありがとう
住み慣れた「おうち」に別れを告げたセミくんは、立派に羽化をとげます。
とうとうやったよ、ミーンミーン!
はねがはえたようれしいな!
そらをとんでるうれしいな!
セミくんは歓喜の声をあげます。
楽器演奏、食事会、そしてホタルの花火。皆から祝福されたセミくん。最後のシーンは木につかまったセミくんの後ろ姿。
ミーンミーン、うれしいな。
生きているってうれしいな。
ミーンミーンミーン!
そう、あの聴き慣れた体感温度を上昇させるセミの鳴き声は、生きることの喜びを高らかに歌う声だったのでした。
このラストシーン。健気に歌うセミ君にホッコリしつつ、当然にセミの生態に思いをはせてしまいます。ミンミンゼミが成虫として鳴いている期間は2~3週間。それに対して「おうち」で過ごした期間は6~7年。セミくんは人生最後の時間を懸命に、そして精一杯、喜びにあふれて生きています。
しんみりジンワリしながら読み聞かせしつつ、「おーしーまいっ」と本を閉じると、裏表紙にはセミくんと結ばれることになるのであろう、セミの女の子が木の陰から顔を覗かせている場面が描かれていて、なんとも朗らかな気持ちになる読後感。
ところで
この羽化という「変身」の節目を描く物語として対比したくなるのが『ぐるんぱのようちえん』(西内ミナミ、1965)です。主人公ぐるんぱにとっての「変身」の経緯は随分と汚く内向的に描かれています。
森の仲間たちはぐるんぱを「おうち」から叩きだし、川でゴシゴシ汚れた身体を洗い落とし、鼻を高く上げて、ぐるんぱの旅立ちを最大限に祝福しますが、そこには「社会という荒波に乗りだしていく者への壮行会」といった錬磨育成の雰囲気を感じます。
それは、その先に待ち構える「しょんぼりしょんぼり」の連続を象徴しているかのよう。
ぐるんぱは、
しょんぼり
しょんぼり
しょんぼり
しょんぼり
しょんぼり。
ほんとに がっかりして
びすけっとと
おさらと
くつと
ぴあのを
すぽーつかーに のせて、
でていきました。
そう思うと『セミくんいよいよこんやです』は周囲から最大限のエンカレッジを受けながら「明るく楽しく力を出そう」という路線なのだと気づきます。そもそもセミくんの「おうち」はぐるんぱのそれとは比較にならないほど、住み心地のよさそうな住環境(図2)。
図2 セミくんのおうち
しかもその「おうち」からどうやって出立するかというと、ぐるんぱは皆に連れ出されます。しかも、それは共同体の一致した方針として、しかもその決定は本人不在の場での合議でなされます。ぐるんぱには決定権がない。
これに対して、セミくんはというと、自らが主体的に「おうち」から出るスケジュールを組み、共同体の仲間(カブトムシさん)は電話でその予定を確認するのです。そこに強制する素振りは一切みられません。
このあたり、1960年代と2000年代の高等教育や新人教育の違いを連想してしまいます。セミくんが羽化前の長い時間をひとりで過ごしたこと、そして、それが温かな見守りによって支えられていたことが描かれているのもナルホドな、と感じます。セミくんや彼を励ますカブトムシさんたちは、中曽根臨教審を経た学習観を持った人たちなのです。
余談ですが、セミくんと同じく「変身」の節目を描く物語で連想するのがフランツ・カフカの名作『変身』(1915)。
主人公ザムザの「変身」は誰からも祝福されず、最後は父親がリンゴを投げつけた際の怪我が致命傷になって息絶える。これって、全くもってセミくんの状況と真逆なのがわかります。こっちの物語は後味悪いし、中学時代にカフカ・ブームになった私は随分と性格が歪みました(泣)
何はともあれ、『セミくんいよいよこんやです』は夏の風物詩・セミの鳴き声をより深く味わうための最良のテキストです。あしたも仕事だうれしいな!ミーンミーン!
でも、実際のところ、エンカレッジされて旅立つ先の社会は、こんなハートフルな世界ばかりとは限りません。中曽根臨教審以後、「関心・意欲・態度」が評価されるようになります。「主体的な学び」のもとに自己実現が求められる理念は、そうはなっていない、いまだ「ぐるんぱのいた森」を生きる実社会と歪みを起こすこともあるでしょう。むしろ主体的な思いが大きければ大きいほど、実社会とのミスマッチ具合も高まりかねない気がします。
ケチャップマンの自己実現
そんな「歪み」考えさせられるのが、まんまケチャップボトルの形をした主人公ケチャップマンが「自分にしかできない何か」を探し求め、ようやく辿りたどり着いたポテトフライ専門店で働くものの・・・という絵本『ケチャップマン』(鈴木のりたけ、2008・2015)(図3)。
図3 ケチャップマン
ケチャップマンはポテトフライ専門店の店長にケチャップの魅力を語るものの聞く耳持たれず、人手が足りないからという理由でアルバイト採用されることに。ポテトの揚げ方特訓で毎晩怒鳴られる日々。ケチャップの出番はまるで無く、毎日深夜に帰宅後はボーッと窓から街明かりを眺める毎日です。
そんなケチャップマンに転機が訪れます。なんとケチャップを注文する客が現れ、さらにはその味の魅力が多くの人に知られることになります。
さて、これでハッピーエンド???と思いきやさにあらず。「自分にしかできない何か=ケチャップの味を喜んでもらう」が満たされることが、自己実現、自己効力感に必ずしもつながらない現実に直面するのです。
きょうも ケチャップ うれたけど
へんな おきゃくの いいなりで
ケチャップマンに よろこびはなし
作者の鈴木のりたけさんは、昭和50年、静岡生まれの絵本作家。元グラフィックデザイナーだそうですが、その前は新幹線の運転手だったという異色の経歴。さまざまな仕事を紹介する絵本『しごとば』のヒットで注目されましたが、この『ケチャップマン』は絵本作家への転身第一作目にあたります。『しごとば』はそれはそれで楽しめるのですが、やはり『ケチャップマン』のクリティカルな視角は段違いにオモシロイ。
自分がやりたいと思っていたことをやることができる立場になったとして、それは幸せなことなのかというと、必ずしもそうでもない。
なぜなら、それをやりたいと思った時点での、当人の世界観はあくまでその時点での知識や経験から導かれたものであって、神の視点ではないのだから。ゆえに、たどり着いたその地点からまた軌道修正のための苦しい試行錯誤が始まる。
むしろ、その試行錯誤自体がまた、その先のやりたいことの下地になったりもする。実際にこの絵本を着想した下地には、グラフィックデザイナー時代の悩みや想いがあるとのこと。
なるほどなぁ。当然にJRで勤務してた時にもそうした想いがあったのでしょう。「自分にしかできない何か」は永遠に探し求めるものなんだろうなぁ。
ケチャップが売り切れるほどの好評を得ながらも、ケチャップマンの心は浮かないまま。むしろ多忙感に苛まれます。最後のページで、ふとした些細なことから笑いが漏れたケチャップマン。
つかれて かえる ゆうぐれの みち
あたまの キャップを なでる かぜが
ふいに ぼーっという おとを たてると
ケチャップマンは ひさしぶりに わらった
⽇常がルーティンワーク化するなか、唐突に訪れた我に返る瞬間。すてきな(でも、しんみりとする)ラスト。
「おーしまいっ」と絵本を閉じて裏表紙をみると、そこにはケチャップマンが背中を向けて布団に入っている絵が(図4)。枕元には目覚まし時計が。。そう、ケチャップマンはまた「⽇常」へ戻っていったのです。そしてまた⾃分もそうやって眠りに就きます。
図4 『ケチャップマン』裏表紙
ケチャップマンはぐるんぱのように「もうけっこう」と辞めさせられはしません。それは人手不足だからとか、ぐるんぱほどの不適格さでないとかが理由かもしれませんが、とはいえ、辞めさせられないこと自体が幸せなことなのかどうか。
中曽根臨教審以後の価値観につつまれて巣立っていったセミくんは、その先どんな経験をしていったのか。気になるところです。
(つづく)
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