「屋根の日」に読みたい柳田國男「三角は飛ぶ」|村と都会をむすぶ
今日、8月8日は「屋根の日」。全国陶器瓦工業組合連合会が制定したそうで、同団体HPではこう説明されています。
どうして8月8日なのかというと、漢字の「八」が屋根のかたちに似ているからだとか。屋根といえば勾配屋根、しかも切妻だからこその8月8日=屋根の日なわけです。というか、全国陶器瓦工業組合連合会だから、おのずと勾配屋根に決まっているわけですが。
日本のまち並みを眺めれば、屋根といっても八の字型の切妻屋根ばかりではありません。かつては八の字型にあふれていた風景が、次第に陸屋根を代表格とする「八」とは異なる形状におきかわっていく様を「三角は飛ぶ」と表現した随筆があります。それは柳田國男の「三角は飛ぶ」。なぜって、今日、8月8日は「屋根の日」であると同時に、柳田國男のご命日でもあります。
そこで、柳田國男の「三角は飛ぶ」をいまいちど読んでみてはいかがでしょうか(青空文庫には『母の手毬歌』の一部として収録されています)。
随筆「三角は飛ぶ」
随筆「三角は飛ぶ」は1945年9月、敗戦翌月に出版された『村と学童』(朝日新聞社)に収録されています(図1)。
ふしぎなタイトル「三角は飛ぶ」。これは、詩人ポール・クローデルが日本のことを詠んだ詩に「あゝ三角は飛ぶよ」というフレーズが各節おわりに何度も登場することに由来します。
柳田はあとになって考えてみると「それは別にむつかしい謎ではなかった」と気づきます。
関東大震災以後の帝都復興にともなって、勾配のある切妻屋根の景観がどんどん失われ、鉄筋コンクリート造の陸屋根ビルに建て替わっていく様をフランスの全権大使として来日していた詩人は「三角は飛ぶ」と表現したのだろうというのです。たしかに、その後、東京以外でもこの傾向は真似られて「屋上に庭園があり運動場の有るやうな家を造ることができないと、建築家で無いやうに思ふ者が多くなつた」と。
このお話を枕に、柳田は「しかし日本の屋根の三角は、決してまだ飛び去つてしまつては居ない」と言い、とはいえ、三角にもいろいろバリエーションが出てきてお揃いではなくなったと言います。そんなこんなで、まずは「どうして此様に日本の屋根の形が、だんだん変つて行くのかといふこと」と「是からもなお変つて入りまじつて行くだらうかどうかといふこと」を知らねばならない。そう柳田は語りかけます。
「三角は飛ぶ」の概略を知ってもらうために、小見出しを拾い出してみます。
柳田は定番の事例をあっちこっちから引っ張って日本家屋における三角屋根の種類や系譜を紹介していきます。てっきり民家をネタにして懐古趣味的に勾配屋根の良さを説くのかと思いきや、そうではありません。文章の最後もこうしめくくっています。
『村と学童』はもともと太平洋戦争の激化によって行われた学童疎開をうけて、疎開先の学童向けの読み物をつくろうという主旨で執筆されました。1945年1月から執筆されはじめ、敗直前月の7月に「はしがき」を記しています。当然に関東大震災、そして東京大空襲で膨大な「三角」が焼け飛んだことを受けてのショックもあるのだろうけれども、柳田が至って合理的かつ即物的に屋根の現在と未来を見通しているのが興味深くあります。
特集「民俗風習の教へ:三角は飛ぶか飛ばぬか」
さて、この柳田の「三角は飛ぶ」のダイジェスト版が月刊誌『科学朝日』の1946年6月号に掲載されます。「民俗風習の教へ:三角は飛ぶか飛ばぬか」と題した特集記事の一部です(図2)。
冒頭に「本誌は今回『民俗風習の教へ』として「屋根」の問題を取りあげることにした。われわれの住生活と切つても切れない屋根である」と趣旨が語られています。ちなみに柳田の文章は「味のある三角」。これもまた見出しを拾ってみましょう。
読者の想定年齢層が高くなったこともあってか記述が充実してる部分もあります。たとえば、疎開という体験がもたらす学びを次のように説いています。
これもまた、柳田らしい指摘です。疎開という三角屋根体験が、戦後日本を再建する原動力になると考えたのです。
さらにこの「民俗風習の教へ:三角は飛ぶか飛ばぬか」では、柳田の「味のある三角」につづいて、建築家・岸田日出刀の文章も収録されています。タイトルはなんと「飛ばしたい三角」。なんとも岸田らしい。
こちらも小見出しを拾ってみましょう。
岸田もまた柳田と同じく、というかより先鋭的に合理的・即物的にこれからの「三角」を説いているようにみえますが、一方で農山漁村にある三角屋根のすばらしさや、気候風土に適した軒の出もしっかり評価しています。岸田は「科学的にみると同時に芸術的に屋根を考へる」ことを重視していました。
科学と芸術の両面から観察する岸田にとっては、当然に「飛ばしたい三角」もあるし「残したい三角」もあったのでした。
三角屋根を学ぶ意義
さて、その後、柳田の「三角は飛ぶ」は芝書店から1949年に出版された『母の手毬歌』とあわせて同じタイトル『母の手毬歌』(ポプラ社、1952)として再刊されます(図3)。
先述しましたように、「三角は飛ぶ」は書き下ろしとして、まず『村と学童』に収録されました。『村と学童』、芝書店版『母の手毬歌』、ポプラ社版『母の手毬歌』はそれぞれ以下の目次構成になっています。
もともと疎開学童向けに執筆した文章を『村と学童』にすべて収録することができなかったので、その後、増補版が出るのは自然な流れ。ただ、芝書店版『母の手毬歌』では、あらたに「千駄焚き」が加えられたかわりに、「三角は飛ぶ」と「棒の歴史」が除かれています。「学友文庫」というシリーズの第1冊とあり紙幅に限りがあったためか?
掲載しなかったことは「あとがき」で言及されていますが、その理由は述べられていません。ポプラ社版では、ふたたび「三角は飛ぶ」と「棒の歴史」が加えられています(ただし、ポプラ社版の編集は柳田本人ではなく民俗学研究所が行ったそう)。
さて、芝書店版『母の手毬歌』の「あとがき」には、柳田自身の言葉でこう語られています。
なぜ子どもたちに「三角」の由来や機能を語るのか。その理由が記されています。
他人の生活を知り、村と町の違いがなぜできているのかを知ることが、ひいては都会と村とのつながりを回復するのだと言うのです。この発想の背景には、当時、柳田が積極的に関与していた戦後教育の目玉科目「社会科」の存在があるのでしょう。
「知って知らなかったということは、人間には幾らもある。それが自然にわかって来るということは、大いなる学問の楽しみである」(前掲「あとがき」)。「中央の大きな力に導かれて、だまって附いて行く」過ちを繰り返さないためにも。
『村と学童』が出版されてより76年の月日が経過しました。いまだ日本にはちゃんと「三角」が残っています。それどころか、三角は「家型」という表現手法として折に触れて現代の建築家たちによって活用されています。
柳田と同じように、子どもへ向けて屋根のいろいろを語りかける読み物もあります。月刊「たくさんのふしぎ」がもとになった、小野かおる『やねはぼくらのひるねするばしょ』(福音館書店、2018)です。
現在の住宅をみまわしてみても、「家型」の持つ力は、それこそスズキハウスの小さな小屋「SCORE(エスコア)」なんかにも端的にあらわれているのではないでしょうか(図4)。
ポール・クローデルが詠んだ「あゝ三角は飛ぶよ」。たしかに飛びもしましたし、またすべて飛び去ったわけでもない。かといって飛んでいないからといって、かつてと同じものかというとそうでもないものもある。そんな多様な三角がある時代になりました。
家にとっても、そこで暮らすひとびとにとっても屋根は大切です。初期のプレハブ住宅は屋根の断熱が不十分だったことから、既存屋根の上に二重に屋根を葺いたり、真夏にはホースを使って屋根に散水したなんてエピソードがよく聞かれます。あるいは、三角屋根じゃなく陸屋根のプレハブ住宅が、台風によって文字通り「飛ぶ」ことになり欠陥プレハブ問題に発展した歴史もあります。
一方で、三角屋根ではないことが重要な意味を持っていた積水化学工業の「ハイムM1」は、陸屋根では「家らしさ」が不十分なため、やむをえず勾配屋根にした商品展開へと路線転換した歴史もあります。実用面だけではなく、象徴としても「三角」は飛べなかった事例といえるでしょう。
まずは「どうして此様に日本の屋根の形が、だんだん変つて行くのかといふこと」と「是からもなお変つて入りまじつて行くだらうかどうかといふこと」を知らねばならないという柳田の言葉はいまもなお有効でしょう。
(おわり)