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食寝分離論というプロジェクト【1】ばばばあちゃんの就寝行為

建築計画学の教科書に必ず登場する用語に「食寝分離」があります。「食うところと寝るところを分けましょう」という意味合いのこの言葉。戦後日本の住宅計画を決定づける考え方へと発展していきました。

提唱者である西山夘三(1911-1994)は、後に、この「食寝分離」の考え方が「現状の分析からそこに隠されている法則性を発見し、これを創造的に適用しようとするリアリズムの展開」だったと回顧しています。

一方で、吉武泰水(1916-2003)は、西山の「食寝分離論」について「〈論〉であって、必ずしも正確な調査の結果ではない」と評しています。「西に西山、東に吉武」と呼ばれた二人の証言は矛盾しているようでいて、実はそうでもないように受け取れます。

なぜって、西山が語るアプローチ方法、「現状の分析からそこに隠されている法則性を発見し、これを創造的に適用」という表現のなかには幾重ものジャンプが許容されているのですから。西山夘三は「創造的適用」でもって何を実現しようとしたのでしょうか。

そんなこんなで、以下、思いつくままに西山夘三が提唱した「食寝分離論」を一つのプロジェクトとして眺めながら、あれやこれやと考えてみたいと思います。

ばばばあちゃんの「いそがしいよる」

絵本作家さとうわきこの人気シリーズ「ばばばあちゃん」。その第一作目にあたる『いそがしいよる』(福音館書店、1981)は「星空を見上げながら眠りに就きたい」という主人公の欲望からとんだドタバタ劇が繰り広げられるお話(図1)。

図1 さとうわきこ『いそがしいよる』

原っぱのなかにポツンと建ってる平屋建住宅に住まう主人公のばばばあちゃん。きれいな星空を見上げて「このまま、うちのなかにいるには、おしいほしぞらだね」と思い、ロッキングチェアを外に持ち出すことを思いつきます。そして、むしろここで寝てしまえばいいんじゃ中廊下。そう閃いてしまうのです。

あとはもう怒濤のように、ベッドと布団・枕を持ち出し、ティーセットを持ち出し、それを置くテーブルを持ち出し、レンジを持ち出し、以下、冷蔵庫、本、スタンド、目覚まし時計・・・などなどなどなど、けっきょく平屋建住宅から一切合切の家財道具を庭に持ち出してしまうのです。最後は家財道具一式を大きなテントで覆い、ばばばあちゃんは疲れ果てて・・・。

ばばばあちゃんのこのドタバタ劇は、星を眺めながら眠りに就くという「就寝行為」が他の様々な生活行為、そしてその行為で必要となる家財道具が不可分であることを教えてくれます。そして、住まいとは家財道具一式のことなのだと。

この、家財道具の一切合切を家の前に出すシーンを見て、あの『地球家族』に登場する世界各国の写真-自宅の前に家財道具一式と家族が勢揃いした写真を思い出します。

なかでも日本だけが圧倒的に家財道具にあふれているのが衝撃的でした。日本に住まう私たちは他の国に比べて多くの家財道具との「連帯」を必要とする何かがあるのかも。そんな話も以前書きました。

さて話を戻して、就寝行為が他の諸行為やそれに伴う家財道具と不可分な様を描き出す絵本『いそがしいよる』。実はこの絵本、戦後日本住宅の基本コンセプトとなった「食寝分離」を考える恰好の推薦図書。

ばばばあちゃんが演じた諸々の行為と場がゴチャゴチャになった「住み方」を批判・改善しようとした考え方の一つが「食寝分離」でした。ばばばあちゃん的な今日の視点からは、乗り越えるべきものとして見える「食寝分離」が、当時の歴史的文脈のなかでどんな意味と意義をもっていたのか。その提唱者・西山夘三の言葉に耳を傾けてみましょう。

西山夘三の「食寝分離論」

日中戦争下の1940年、近衛文麿を中心とした新体制運動がスタート。ナチスの日本版として一国一党の国民組織をつくる動きが活発化しました。そんな動きと併走して登場したのが国民服や国民住宅といった、標準的な国民生活の器。そこでは合理化・簡素化が重視されました。

皮肉なことに、ここでようやく下々の庶民が住む家も、国家や建築家、建築学者にとっての関心事として浮上。国民住宅も、厚生省や建築学会、住宅営団等の諸機関や、数多くの建築学者や建築家等によって、あーでもないこーでもないと提言・提案・研究されることとなります。

庶民の住宅をちゃんと考えよう。動機はともあれ、そういったムーブメントが沸き起こったことに、バリバリの社会主義者でもあり、かねてから庶民住宅を研究していた西山夘三も「ヨシ来た!」と乗り出すのです。西山は言います。

庶民の住宅はそれまでの建築家の設計の領域にはなく、設計の前提条件は明らかでなかった。その設計を改善・向上させるためには、伝統的に形成されてきたその住宅のあり方を規定している前提条件をさぐり出す必要があった。それが明らかになれば、よりよい住宅をつくるために必要な新しくつけ加え、あるいは定立すべき条件が明らかになるからである。
(西山夘三「食寝分離論と住み方研究の方法論」建築雑誌1981.8)

ところが当時、国民住宅の設計基準として公表された「庶民住宅の技術的研究」(建築学会住宅問題委員会、1941)や『住宅及其ノ敷地設計基準』(住宅規格協議会、1941)の内容を見て、西山は怒り爆発ファイヤーに。そこで登場するのが「食寝分離論」。

西山はそれら設計基準の内容が、全くもって庶民の住み方の実状を知らない机上の空論だとプリプリします。兵役を終え「大学の研究室にかえってから、猛然と建築学会の基準への反撃」を繰り出したのでした(西山『日本のすまいⅡ』1976)。その怒濤のラインナップをとくとご覧候え。

「住居の基本空間に対する一考察」1941.4
「都市住宅の建築学的研究(四)」1941.5
「極小住宅における平面基準の問題」1941.6
「型計画と計画基準」1941.10
「庶民住宅の建築学的課題」1941.10
「住居空間の用途構成に於ける食寝分離論」1942.4
「庶民住宅の住み方に関する研究(第一報)」1942.4
「632型及642型における住み方」1943.9
「性別関係よりみた就寝慣習」1943.5 などなど

西山は建築学会や厚生省が打ち出す方針への疑念を、後年、次のように説明しています。

庶民の住宅は畳を敷きつめて一見等質にみえるヘヤで構成されていても、そこには永い生活でつちかわれてきた習慣・伝統の中で独特の住み方による用途(=機能)分化が厳然として存在する。小庶民住宅で最も重要な機能分化は「食」と「寝」である-ということだった。
(西山夘三『すまいの考今学』彰国社1989)

別の機会にはさらに次のように突っ込んだ説明もあります。

どんなに住宅がせまくなっても、いやかえってせまくなればなるほど、転用できにくい事情のために、寝る場所とは別に小さくてもよいから食事用の空間がとられること、この食事用の空間が小住宅では、(中略)寝る場所にいくらでもつめて寝るということによって保証されていること・・・・・・といったことである。こういう実態が、庶民の小住宅における「食寝分離」型の住み方の厳存である。
(西山夘三『日本のすまいⅡ』勁草書房1976 )

庶民は、どんなに住宅がせまくなっても、食べるところと寝るところは分けたがっている。そんな「現状の分析」から導かれた「隠されている法則性」を発見した西山は、これを「創造的に適用」しうる「食寝分離論」を打ち出したのでした。

吉武泰水の疑念と住宅営団「御花茶屋分譲住宅」

そんな西山夘三の「食寝分離論」に対して、吉武泰水は冒頭にも紹介しましたが、次のコメントを残しています。

西山さんの食寝分離論は〈論〉であって、必ずしも正確な調査の結果ではないと。あれはやはり洞察によっている。洞察は重要なんです。しかし、調査の結果から食寝は分離すべしという結論が出たように言われるのはおかしいのじゃないか。
(吉武泰水『建築計画学の創成』建築家会館1999)

吉武は西山の「創造的適用」を「洞察」の結果と認めつつも、「正確な調査の結果」という科学的な手法じゃねーし、と言うのです。

さて、どうだったのでしょう。西山らが唱える「食寝分離論」に基づく試作住宅が敗戦前の1943年に建設されています。同潤会から引き継がれた御花茶屋団地の一角に試作された「食寝分離型」の分譲住宅11戸(*1)は、実験住宅というには準備不足で、十分な住み方調査も行えなかったらしいけれど、西山はそこで観察された住み方をスケッチしています(図2)。

図2 御花茶屋分譲住宅の住み方調査

すると、食寝分離を前提とした間取りながらも、夏だけ末っ子が食事室で寝ている例、長男が食事室を勉強部屋兼寝室にしている例など、食寝分離が実施されていない事例が散見されたのです。西山は言います。

総体としてみると、研究部の規格平面の意図がかならずしも貫徹されていない住み方が、かなり発見できる。これは居住者の今までの住み方の慣習だとか好みによるもので、大して問題にする必要がないとみられる面もある。(中略)しかし同時に、これらの住み方の諸例は、もともと最低型ともいうべき食寝型の平面構成を、機械的に、特に四室以上の中・大住宅に展開・適用してみることが危険であることを示していたといえる。
(西山夘三『日本のすまいⅡ』勁草書房1976 )

うむ。要は、庶民は、どんなに住宅がせまくなっても、食べるところと寝るところは分けたがっているというわけではない、ということなのかな。

「食寝分離」をサポートする住宅平面であってすら、食べる部屋と寝る部屋を複合する事例がみられるということは、「永い生活でつちかわれてきた習慣・伝統の中で独特の住み方」は存在するとしても、少なくとも、その住み方とは「食寝分離」じゃないのでは。ばばばあちゃんは悪くない。そんな疑念が沸き起こります。

じゃあ、「習慣・伝統の中で独特の住み方」とは異なる「食寝分離」とは一体どんな「洞察」のもと、どのような「創造的適用」を目指したものだったのでしょうか。「食寝分離論」というプロジェクトとはなんだったのかを探ってみようと思います。

そんなわけで、次回は「庶民住宅」と「食寝分離」のそれぞれについて、西山夘三がお気に召さなかった諸提案を手掛かりに「食寝分離論というプロジェクト」を観察してみます。

(つづく)



1)住宅営団「御花茶屋土地付分譲住宅」は、西山夘三たちが食寝分離論の実証実験も兼ねて建設したことで有名なだけでなく、戦時中、吉本隆明がこの分譲住宅の「ち型」に一家で住んだことでも知られます(石関善治郎『吉本隆明の東京』作品社、2005)。

図版出典

トップ画 西山夘三『国民住居論攷』伊藤書店1944
図1 さとうわきこ『いそがしいよる』福音館書店1981
図2 西山夘三『日本のすまいⅡ』勁草書房1976

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竹内孝治|マイホームの文化史
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