清家清はなぜ「家相」を語ったのか|ウンチクと迷信による啓蒙戦略
方法としての「ダジャレ」
ネスカフェ・ゴールドブレンドのCMで「違いのわかる」建築家(*1)として一躍ポピュラーになった清家清(1918-2005)は周囲が困惑するほど大のダジャレ好きとしても知られます。
そもそも彼の名前自体が冗談のように見えなくもない(*2)。実際、清家を知る人たちは口を揃えてそのダジャレ好きを指摘しています。
たとえば、清家にインタビューしたときの印象を建築家・中村好文は「清家さんは飄々とした仙人のような方で、ニコニコ顔で語られるそのお話もどこまでが真面目でどこまでが冗談なのか分からず、どう受け答えしたらいいか、実はちょっと困りました」(『住宅読本』2004)と言う。
また、建築家・山口和正はというと「先生は冗談と猥談が好きで、いつもそれらが研究室の中を飛び交っていた」(『清家清』2006)と証言しています。わ、猥談。。。
さらには、清家の長男・清家篤も「家に居るときも駄洒落を連発していた」(同)と書いています。ためしに清家の講演録や著書に目を通してみると、いやはやダジャレと冗談のオンパレードで驚かされるほど。
じゃあ、そんな清家のダジャレ趣味・冗談(含む猥談)癖は、いわゆるオヤジ特有のおふざけと一蹴してしまっていいのでしょうか。いやいや、むしろ、合理性・倫理性とユーモアが同居した清家の建築作法を踏まえてみると、建築創作とダジャレは不可分といっていいほど深い関係があるはずでは。これはなんともカングリー精神を刺激する問いです。
それこそ「先生のユーモアは潤滑剤であると同時に、冗談の中に真実が込められていた」と建築家・村口昌之は回想しています(『清家清』2006)。それゆえ、ダジャレは単なるおふざけではなく、いわば発想の方法として積極的に選び取られたのでは中廊下。
「家相」論から清家を読む
ダジャレ好きで「違いのわかる」建築家として人気者になった清家清。建築史における彼の位置付けは、決して建築界の篠沢教授的ポジションに止まりません。
代表作である「森邸」(1951)や「斉藤助教授の家」(1952)、自邸「私の家」(1953)を初めとした優れた住宅作品を残し、日本建築の伝統を継承しつつも現代的に発展させた戦後日本を代表する建築家と評されます。
また、清家はたくさんの本を執筆しました。その大半は一般向けの住宅啓蒙書ですが、なかでも「家相」をテーマとしたものがよく知られています。
ベストセラーとなった『家相の科学:建築学が発見したその真理』(1969)のほか、『栄える家・衰える家:家相の居住学』(1986)、『現代の家相』(1989)などが立て続けに刊行され、一般向け雑誌での家相特集の監修や講演といった啓蒙活動も数多く手がけました。
でも、清家によるこれら「家相」論は、一般大衆からの注目度に反して、建築学における研究・論評ではほとんど言及されることはありません。それどころか、清家自身の住宅設計と著書で語られている家相論は実は一致しないなんてことも指摘されています(藤岡洋保「清家清の建築」『清家清』2006)。むしろ、「一般への建築知識の啓蒙と自身の創作活動を切り離して考えている」のだと。
はたしてそうなのでしょうか。
建築界のスポークスマンとして、清家は自身の住宅設計論と整合しない「家相」論を、ああまで精力的に説いた(書いたのはインタビューをもとにしたゴーストライターだとしても・・・)のでしょうか。そんな疑問がわいてきます。
先にもふれたように、清家がもともと極めて合理的な思考とユーモア精神を併せ持った人物であったことを踏まえると、一見したところ整合性を持たないかに思われる彼の「家相」論と建築設計には、実は合理的思考に拠って立ったユーモア的表現なのでは中廊下。言い換えるなら「家相」論こそ、清家にとっての「方法としてのダジャレ」の実践例なのだということ。
そんな仮説をもとに、さっそく「家相」に関する著作たちを読解してみましょう・・・。いやその前に、やや遠回りではありますが、啓蒙活動に対する清家の姿勢について、略歴も振り返りつつ見てみたいと思います。一般大衆に人気を博した「家相」論だからこそ。
清家清の啓蒙活動
1918 年に生まれた清家清は、東京美術学校(現・東京芸術大学)、東京工業大学を卒業後、太平洋戦争に従軍します。帝国海軍にて飛行機の格納庫を設計し(その数29棟に及ぶ)、W工法の開発に従事した経験が、戦後第一作目「うさぎ幼稚園」(1949)から始まり住宅設計へと展開していくワンルーム志向へつながったと回想しています。
このへんのお話は別のnoteでも書きました。
復員後は住宅建築の設計で名を馳せるとともに、東京工業大学で教育・研究に励み、数多くの建築設計に携わりました。
研究活動では、図学や住宅規模、色彩、動作空間といった分野での実証実験を得意としました。特に論文「家事労働と住宅の適正規模」(1950)は、50年代における清家の住宅設計の基礎となったもので、学術論文らしい科学的な分析が進められながらも、文中おもむろに「エイクソ」、「ホイキタ」といった文言が用いられていてクスッと笑えます。
論文「住宅平面の傾向」(1953)でも、「裸の国民が求めているのは(中略)腰に纏う一片の布きれであり・・・」といった独特な文章がみられます。
こうした建築設計活動、研究活動、さらには無類の辞書・百科事典好きによる博学をベースにして、清家はたくさんの本や雑誌原稿を書きました。その数は編著や翻訳も含めると30 冊を超えます。
清家の著作活動の大半は住居を主題としたものであり、ジャンルとしては住まいづくりの基礎知識、家庭百科事典の「すまい」の巻など啓蒙的な性格を持つものがほとんど。
一連の「○○の居住学」シリーズのほか、日曜大工や家相などについて書いたその文章は、平易でユーモアに溢れて一般読者向けとして最適です。清家はかなり意識的に啓蒙活動を展開していたようで、こうした姿勢の延長線上に通信教育のほか、ネスカフェのCMやタモリ倶楽部への出演といったマルチタレントぶりもあったはず(*3)。
清家自身、やや遠慮しつつも自身の旺盛なマルチタレントぶりを「啓蒙運動の一環」と表現しています。住宅とは何か?良い住まいとは何か?その解を一般庶民へ届けるためにあらゆるチャンネルで積極的に発信したわけです。
しかもそれらの情報は、清家の表現を使えば「自然科学を人文科学へ演繹した」ものでありました(「清家清に問う」、『別冊新建築・清家清』1982)。この「演繹」の回路に方法としての「ダジャレ」も組み込まれているように思われます。
東京工業大学教授として科学的研究に余念のなかった清家は、そこで蓄積した知見や設計上のノウハウを生のカタチではなく、より一般庶民に伝わりやすい表現へと変換していたことがうかがわれます。
参照点としての「父・清家正」
建築設計・研究活動と並行しつつ精力的に啓蒙活動を進めた清家の姿勢。そのルーツを探るために、清家清の実父であり機械工学・機械設計製図の研究者としても知られる清家正(1891-1974)に登場ねがいたいと思います。
父・正は体操、柔道、カメラ、ナイフやハンダ付けの仕方などなどを息子に教え込み、「職業教育は子どもの時からの手先、指先の技術の中に始まるんだ」という信念のもと、徹底した実学重視の教育を授けたようです(「プロを育てる「実学」を重視-清家清」、『おやじの背中』2001)。また、「合理的な態度は(中略)強いて言えば父の影響と思います」(『別冊新建築・清家清』1982)とも清家清自身が述懐しています。
そんな父・清家正は生涯にわたって設計製図の科学化・標準化を推進した合理主義者として知られます。また、実学に基づく徹底した精神主義者でもありました。著書『工民魂』(1942)にそれは顕著で目次が時代性も反映して熱い啓蒙精神にあふれています。
第1:工民はまず集団生活に溶け込め
第2:ゴミをひろえ
第3:歩調を合せ
第4:敬礼せよ尊敬せよ
第5:音・面・道
第6:恥を知れ
といった調子。
「科学」と「精神」、「合理」と「倫理」。一見相容れないように思える組み合わせですが、拳をふりながら(=浪花節)科学の意義をアジる姿勢は昭和期(特に戦時期)の科学者・技術者に多くみられた傾向でした。清家正もその一人。
科学・技術の恩恵をいかに一般の人々に届けるか。このことに腐心する過程でおのずと科学・技術の知見は浪花節的様相を帯びるようになります。同時にそこにはある種の論理的なジャンプもまた伴います。その傾向が最も顕著に現れるのが科学分野のなかでも「テクノロジー=科学技術」の世界。いわば科学に「汗」が入り込む現場であるわけで。科学と浪花節が「汗」を蝶番にして結びあわされる。
それでは、この啓蒙の構図は清家正から清家清へと引き継がれたのでしょうか。この問題を考えるにあたって興味深いエピソードを、清家に教えを受けた林昌二が残しています。
林は言います。
先生は実に多くの一般向けの著書を公刊され、私たちはそのたびにありがたくいただいてきましたが、さるとき、「これも上げる」といって下さったのは、『国体の本義』『明治以降詔勅謹解』『臣民の道』の3冊でした。ザラ紙の変色ぶりは時代を思わせますが、驚いたのは、ところどころに黄色の3M製ポストイットが挟まっていたことです。
(林昌二「博覧強記」、『清家清』2006)。
『国体の本義』(1937)、『明治以降詔勅謹解』(1938)、『臣民の道』(1941)の3冊は全て戦時に発行された皇道精神を伝えるバリバリの啓蒙書。「皇国臣民の道は、国体に淵源し、天壌無窮の・・・」といった調子で、浪花節的煽りの文章が歴史的ウンチクとともに展開する内容です。
清家はそれらの本を戦時中に読んでいたんじゃない。3Mポストイットの時代に読み込んでいたのです。この事実から「浪花節的煽りと歴史的ウンチクによる科学的啓蒙」というストーリーを夢想してみることが可能かと思います。
さて、随分と寄り道をしましたが、上記のような清家の啓蒙への姿勢を踏まえて、彼の「家相」への語りをみてみたいと思います。
清家清の「家相」3部作+α
まずは、多くの著作のなかでも最も人口に膾炙している『家相の科学:建築学が発見したその真実』(光文社、1969)。
その内容は、家相とは何かから始まり、環境、敷地、間取り、構造、材料、設備に章分けされ具体的に家相のイロハが論じられています。興味深いことに挿絵はあるものの、間取りは一切掲載されていません。
その本のなかで清家は、長年収集してきた家相本に書かれた事柄の傾向が3つに大別できると言います。
① 建築計画学的、工学的あるいは住居学的に根拠のあるもの
② 家に関した社会的タブーをあらわしたもの
③ 科学的にまったく説明しようがないもの。
従来はこのうちの「③科学的にまったく説明しようがないもの」をクローズアップし、迷信として退けられてきたと指摘した上で、清家の『家相の科学』ではこの3つの傾向のうち①と②のみに着目・論述したことを「まえがき」で述べています。
そうして出来た『家相の科学』を、清家は「科学時代の家相秘伝」と評しています。それは父・清家正ゆずりの「浪花節的煽りと歴史的ウンチクによる科学的啓蒙」の家相版といえなくもありません。
次いで『栄える家・衰える家』(光文社、1986)。
『家相の科学』から18年も経ってからの続編。前著がハードウェアに関する事柄を中心に述べた本であったと位置づけ、本書がより居住学的見地から家相の内容を紹介する、ソフトウェアに踏み込んだ内容であることを説明しています。
注目されるのは「どんなに家相がよくても、その住まい主と家相が合わなくては凶事が訪れる」と指摘し、「その住まい主の住まい方(居住学)について考えてみることが、家相のうえからも重要」だと説いている点。
ほかにも、「本文中の家相口伝は、厳密にいえば家相書といえない書物からの引用もありますが、それは居住学という立場から有効と考え採らせていただきました」と語ります。
家相についての本と思いきや、そこで扱われる話題はいわゆる家相を大きく逸脱。極めて柔軟(というかいい加減)に家相の枠組みを捉えていたよう。
そして『現代の家相』(新潮社、1989)。
雑誌「太陽」の特集を再編集した「とんぼの本」シリーズの一冊とあって、よりビジュアルな内容になっています。そこでは、家相は「古代の建築基準法」だと表現され、古人の知恵のことばが集約されたものであると説いています。
一方、鬼門に便所を設けるのが凶なのは、日当たりが悪く冬寒いからだと言い、オーソドックスな家相論を計画学的に説明しつつ、鬼門の便所であっても暖房工事をすれば「厄落とし」になると指摘したり。
寒いから凶なのだから暖房工事をすればよい、という判断。一事が万事で、『現代の家相』は、家相を話の糸口にして、ビジュアルに家相の概要を解説した内容と思わせつつも、じっくり内容に目を通してみると、家相以外の話題・情報が相当数書かれていて、その対処法も随分と科学的。
ここで紹介した3冊の本のほかにも、住宅雑誌の家相特集を監修したり、家相をテーマにして講演したり、さらには、家相をメインテーマにしない本でも家相について言及していたりします。
むしろ、そうした場面では、より率直に「家相」への考えが語られていたりして、清家の家相に対する考えをダイレクトに知ることができます。
その典型として、日本建築学会が主催した学会創立百周年記念市民公開講座「家相は迷信か」(日本建築学会編『現代家相学:住まいの知識と暮らしの知恵』所収、1986)はリラックスした雰囲気のなか、得意の冗談を連発しながら「家相」への考えを吐露した興味深い内容です。
『家相の科学』執筆前後の経緯についてはこんなふうに語っています。
家相の勉強をしておりましたら、二十年ほどまえカッパブックスという本屋が現れまして、本を書けというので、じゃあ家相はほとんど迷信とでも書くか、ということで、書き始めたのが、この本のはじまりでございます。そういうことで、あんまり家相見の言うことは信用しないで、ちがいのわかる建築家清家清の言うことを信用したほうがいいということです(笑)
(*4)
「家相はほとんど迷信」と言いつつ「家相」について語る清家。韜晦が過ぎるように受け取られかねませんが、清家の啓蒙戦略を彼の父にまでさかのぼって確認してくると、また違った見え方ができるでしょう。
やはり「冗談の中に真実が込められている」いわば「方法としてのダジャレ」の実践例として「家相」が語られているにちがいありません。
清家清はなぜ「家相」を語ったのか
清家清が家相をどう考えていたかがよくわかる発言があります。それは次のような発言。
すべてが迷信かと言うと、迷信だと思っていただいていいと思うんですが、迷信でないところもある。
清家にとっての「家相」は、「建築計画学的、工学的あるいは住居学的に根拠のあるもの」を取捨選択しつつ再構成されたもの。そして、場合によっては「厳密にいえば家相書とはいえない書物」からも引用される蘊蓄の集積からなりたっています。
つまりは、清家のいう「家相」は世間一般に言う家相とは違うということ。だからこそ、いわゆる家相を自分の建築設計に適用すること自体に全く興味がなかった事実も納得できます。自身の設計方法論でもなければ、自作を説明するための理論でもない。
だからこそ清家は先の発言に続けて次のように言い放ちます。
あんまり家相見のいうことを信用しないで、ちがいのわかる建築家清家清の言うことを信用したほうがいいということです(笑)
この発言もネスカフェのCMにからめたギャグ以上の意味をもっているわけで。大阪万博を翌年に迎えた1969 年に、清家はあえて家相という「迷信」を持ち出すことで「科学時代の家相秘伝」を世に問うたのでしょう。そんな啓蒙戦略の背後には「家相」が「迷信」であるがゆえに、かえって一般向けの訴求性(=「浪花節」度)が高いという、設計者としての経験・判断が働いていたはずです。
たしかに家相は、その良し悪しが吉凶に直結していることと、その回避策が具体的であることにおいて、素人との親和性が高い。戦後民主主義社会にあって、ひとびとがそれぞれ自分が思うように家をつくれるようになったからこそ、素人でも住宅設計の良し悪しを云々できるツール=家相が重宝したのでは。
実際、戦後から現在にかけて家相関連書籍は盤石のジャンルにみえます。そのあたりのお話は、別にnoteに書きました。
家相をダシに清家は住宅啓蒙の一環として『家相の科学』を世に問うた。それゆえに、清家は「家相について語りながら(家相に従わないどころか)、家相について伝える気はなかった」と見なすことも可能かと思われます。「家相」は「浪花節」であって、そんな「家相」をダシにした冗談に、建築設計の勘所を潜ませる。ここに清家の啓蒙戦略がありそうです(※5)。
かといって、家相を使って家相を語らないという清家の屈折した啓蒙戦略は、「迷信」をその「浪花節」性によって導き糸とした一般向けの啓蒙に止まったのかというと、どうもそうでもないようです。
家相という「迷信」から「科学」を取り出した清家。そんな彼も、科学は常に現時点での「限られた要素の測定値」による価値判断であると念押ししていました。そして「世の中にはデジタルに測定できないものがある」とも言っています(「清家清に問う」、『別冊新建築・清家清』1982)。
だとすると、「すべてが迷信かと言うと、迷信だと思っていただいていいと思うんですが、迷信でないところもある」家相についてわざわざ語ることの意図が透けて見えてきます。そこに「もう一つの啓蒙」が想定できるのではないでしょうか。つまりは「迷信」を活用することによる専門家への啓蒙。
機械論的科学主義の暴走が危惧されてもいた1969 年に、清家は「迷信」としての「家相」が持つ分厚い「古人の知恵」に目を向ける重要性を建築界に突きつけたのだとも考えられるのです。もっとやわらかな発想を、と。教え子である林昌二に茶色く変色した装幀に黄色いポストイットが挟まった『国体の本義』を手渡したように。
(おわり)
註
※1 1975年にネスカフェ・ゴールドブレンドのCMに出演。各職業から1名を選ぶ企画であったことから、清家は建築家代表として「違いがわかる男」に認定されたことがわかります。
※2 本人が名前をつけたわけではないけれども・・・。ただし、本人が実際に「上から読んでも下から読んでも清家清。またの名は清家清(きよのやきよし)です」と自己紹介し、ジョークのネタにしていたことを小原稚子が証言しています(『清家清』、新建築社、p.333)。
※3 TVコマーシャルに出たために東京工業大学学長になれなかったという話について清家に質問したところ、「親から300坪の土地を相続して、その相続税を払うために必要に迫られてやったんだよ」と答えたと滝久雄が書いています(『清家清』2006)。とはいえ、清家の韜晦癖を加味して話半分に受け取る必要があるのは言うまでもありません。
※4 別の箇所では、金持ちになる相を踏まえ蔵をつくったが、「いっこうに金持ちになりません」だとか、「家相では、屋根の上にたとえばペンペン草が生えるとその家は衰える、というようなことを言っているわけですが、本当はそれは逆でして、ペンペン草が生えるようになったからだめになるのであって、生えたからだめになるわけではないんです」といった発言をみることができます。
※5 この場合、清家の家相論と実際の設計の「ズレ」、あるいは清家の家相論と一般的な家相の「ズレ」について検証したり、「実際のところ清家は家相を無視してこのように設計していました」と指摘したりすることは、ほとんど意味をなしません。「ズレ」は意図されたものであって、むしろ「ズレ」が持つ意味の読解こそが求められるはず。「事実」と「語り」の間を読む(「語り」は「騙り」に通じる)。