デイヴィッド・グレッグ『あの出来事』のためのノート4

 デイヴィッド・グレッグは、2003年に『ノルウェー人だから』(Being Norwegian)という短編戯曲を発表している。もともとはラジオドラマとして書かれたのであろう。上演記録を見ると、10月にエディンバラのトラヴァース劇場で公開録音され、12月にBBCラジオで放送されている。舞台作品としての初演は、4年後の2007年のことである。グラスゴーのオーラン・モア劇場(Oran Mor)の「プレイ、パイ、パイント」という企画での上演だそうだから、観客はランチタイムにビールのパイントグラスとミートパイを手に劇を楽しんだにちがいない。たしかに、軽い筆致の本作を観るには、こうしたリラックスした雰囲気がふさわしい。だが、それはけっして中身の薄い小品だという意味ではない。
 スコットランドの町を舞台にした男女ふたりの芝居である。ある夜遅く、ショーンという男がリサを連れて自分の部屋に帰ってくるところから劇は始まる。パブで彼女と出会って、すっかり意気投合したらしい。引っ越してきたばかりだというショーンの殺風景な部屋で、ふたりはワインを飲みながら、おたがい自分のことを話し始める。ショーンはかつて悪事を働いたことがあり、一年前まで服役していた。それが原因で妻とは別れ、息子とも長く会えていない。いま飲んでいるワインは、息子が大きくなったら、いっしょに開けるつもりで取っておいたボトルから注いだものだ。
 一方、リサも意外なことをショーンに告げる。母語のように英語を話す彼女だが、実はトロンヘイム生まれのノルウェー人だと言うのである。会話をリードするのも、彼女の方だ。早まったことをしたのではないかと不安がっているショーンに対し、リサは「自分はノルウェー人だから、性的な関係にはオープンだ」と明言して、自分からキスを求めるのである。
 この積極的な誘いの台詞に限らず、リサは概して自分の考えをあけすけに口にする。彼女が言うには、この国は万事がせわしなさすぎるそうだ。みんな大声で怒鳴りあっているが、誰も本心を語ろうとはしない。ノルウェー人は、もっと静かで落ち着いた生活をしているという。リサにこのような発言をさせる作者デイヴィッド・グレッグの意図は明らかだろう。イギリスあるいはスコットランドの現状を批判するための視座として、ノルウェーという国が引き合いに出されてきているのである。
 実際、2012年に行なわれたインタヴューのなかで、グレッグは半ば冗談めかしてではあるが、ノルウェーこそが自分の理想郷だと述べている。彼にとって、社会民主主義の理念に基づくノルウェーは、他者に向かって開かれた多文化主義のヨーロッパを体現している国なのである。そのノルウェーで、排外主義を信奉する極右の青年が銃乱射事件を引き起こしてしまった。グレッグには大きな衝撃だったろう。同じインタヴューで、彼はウトヤ島の惨事のことを「苦労を知らずに育った次男坊が、自分の家族をめちゃくちゃに破壊してしまったようなもの」と形容している。『あの出来事』の初演は2013年だから、ちょうど戯曲の執筆を進めていたときの作者の言葉だ。
 話を『ノルウェー人だから』に戻そう。なにに関しても二言目には「ノルウェー人だから」と言い出すリサに辟易したショーンは、「ずっと前から君の姿をよく見かけている。ノルウェー人のはずがない」とやりこめる。一瞬たじろぐリサだが、その後の鋭い切り返しが面白い。彼女いわく、中世にヴァイキングの侵略を受けたスコットランドに生まれたのであれば、家系のどこかでノルウェー人の血が混じっていても少しも不思議ではない。かく言うショーンだって、実はノルウェー人ではないのかと問いかけるのである。
 ショーンは、リサのこの「誘い」に乗ることにする。今夜、知り合ったばかりのふたりは「ノルウェー人」という偽のアイデンティティを身にまとうことで、親密さを深めてゆくのである。リサは言う。「ノルウェーでは小さな音で音楽をかけるの」。リサが散らかった部屋でカセットテープを見つけ、ふたりが曲に合わせて静かに身体を揺らし始めるところで劇は終わる。ちなみに、ラジカセから流れてくるのはA-HAの「テイク・オン・ミー」だ(ここでにやりとした方は、グレッグやわたしと同年代)。


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