『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)を読む会1
11月のある週末、俳句の仲間を二人誘って、オンライン上で岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』を読む会を開きました。三人とも結社「銀漢」のメンバーです。「銀漢」の師系をたどれば、<秋晴の空気を写生せよと言ふ>と詠んだ客観写生派の沢木欣一にたどり着きます。抒情色の濃い万太郎の俳句とはあまり相性がよろしくないはずですが、この三人はそろって万太郎俳句のファンです。みな芝居好きで、俳句を始める前から演劇人としての久保田万太郎の作品になじんでいたためでしょう。また、「銀漢」の伊藤伊那男主宰には、<妻と会ふためのまなぶた日向ぼこ>のような作もあって、沢木欣一よりは抒情への許容度が高いことも一因かもしれません。ともあれ、『久保田万太郎俳句集』の「草の丈」の部(拾遺も含む)から、自分の気に入った十句を選んで持ち寄り、鑑賞を述べ合うという形式で会を進めました。
まずはAさんの選です。文庫に記されている通し番号をカッコ内に示します。
奉公にゆく誰彼や海蠃廻し (16)
秋風や水に落ちたる空のいろ (29)
さびしさは木をつむ遊びつもる雪 (35)
草の花ひたすら咲いてみせにけり (88)
手摺まで闇の来てゐるひとりむし (115)
迎火やあかあかともる家のうち (122)
あきくさをごつたにつかね供へけり (223)
親一人子一人螢光りけり (246)
秋扇たしかに帯にもどしけり (248)
露の道また二タまたにわかれけり (251)
Aさんは三人のなかでも、とくに久保田万太郎に思い入れがあって、全集にも当たりながら会に臨んでくれました。「海蠃廻し」の句は明治42年の作とのこと。万太郎が20歳になるかならないかのころの句です。万太郎は大学まで進ませてもらえましたが、昔いっしょにベイ独楽を回して遊んだ仲間には、早くに奉公へ出された子もいます。その「誰彼」を思い出しての感慨でしょう。樋口一葉の『たけくらべ』を彷彿とさせます。
「秋風」の句には長い前書が付いています。関東大震災で浅草の家から焼け出された折に詠まれた句です。その後、万太郎は日暮里で親子三人水いらずの暮らしを始めますから、彼の人生の節目を示す句でもあります。「水に映れる」とはせず、「落ちたる」としたところが非凡です。
「つもる雪」の句には「長男耕一、明けて四つなり」という前書があります。Aさんは、四歳の男の子が遊んでいる姿に「さびしさ」を見る万太郎の眼差しに注目しました。実際、どこかよそよそしいところのある変わった親子だったようです。
「草の花」の句にも「柳戸はる子、幹部に昇進す」との前書があります。「草の花」という季語の選択に、Aさんは、演劇界の名家の出身でもないのに苦労して芸を磨いてきたのであろう柳戸への万太郎の情愛を見ます。
「ひとりむし」の句は、平仮名で書かれているために一瞬、句の意味が取りにくくなっていますが、夏の夜、「火取虫」が飛び込んでくるほど大きく窓を開けて盃を傾けている万太郎の姿が見えてくるようです。
「迎火」の句は、最初の妻の新盆に詠まれた句です。自分が死へと追いやったと言ってもよい妻のために、万太郎は迎火を焚き、家中の灯りを点します。深い悔恨の情が伝わってきます。
「あきくさ」の句は、よく歳時記の例句に採り上げられています。新劇俳優、友田恭助の七回忌に際して詠まれた句です。七回忌ともなれば、故人への思いもかなり落ち着いてきているものでしょうが、万太郎は「あきくさをごつたにつかね」、墓に手向けます。Aさんは、この少し乱暴な言葉遣いに、才能ある俳優を奪った戦争への万太郎のやりきれない思いを読み取ります。
「蛍」の句には、「耕一応召」という前書があります。先ほど「どこかよそよそしさが残る」と書きましたが、この句にも、息子への情を素直に示せない万太郎の不器用さが窺える気がします。
「秋扇」の句については、「人にこたふ」という前書の効果が絶大です。小澤實は『万太郎の一句』で、この句を取り上げて「むつかしい話が終って、それでは別れようという場面でないか」と想像していますが、Aさんの解釈も同様です。素っ気ない言葉遣いの背後にあるドラマに興味を惹かれます。
「露」の句は、まさに万太郎の境涯そのものではないでしょうか。万太郎の戯曲には、人生のどこかで釦を掛け違えてしまった人物がよく出てきますが、最初の妻との結婚のように万太郎自身もそうでした。そうした万太郎がまた、どちらを選べばよいのかわからない二本の道の分かれ目に立っています。
続いてBさんの選です。
花曇世帯道具を買ひありく (2)
年の暮形見に帯をもらひけり (25)
長火鉢抽斗かたく春の雪 (52)
花人のおかる勘平をどるかな (76)
短日の耳に瀬の音のこりけり (99)
子煩悩なりしかずかず野菊咲く (129)
時計屋の時計春の夜どれがほんと (145)
おでんやにすしやのあるじ酔ひ呆け (170)
朝寒やはるかに崖の下の波 (255)
なつかしや汐干もどりの月あかり (288)
Bさんは「花曇」の句の季語の斡旋の上手さを指摘します。「世帯道具を買ひありく」のであれば、もっと突き抜けて明るい季語であってもよいはずなのに、万太郎は「花曇」を選びます。新生活への不安が覗いているようです。
「年の暮」の句を選んだことについては、Bさん自身の経験も反映されているとのことでした。ある方から帯を貰ってくれと言われて、Bさんはお断りしたのだが、その後しばらくして、その方はお亡くなりになったそうです。なにが形見分けになるかわからないという経験をすると、万太郎のこの句はじんわり胸に沁みます。
「春の雪」の句については、「かたく」が「抽斗」にも「春の雪」にもかかって、早春の季感が的確に描出されています。少し脱線して、文学座で久保田万太郎の芝居を見ると、いつも同じ火鉢の小道具を使い回しているという話も出ました。
「花人」の句は、花見の風景の素描でしょう。宴席での座興をそのまま書きとめたような詠み方ですが、「おかる勘平」の名前を出すことで、桜の華やぎの影にある死が浮かび上がってくる点が巧みです。
前書によれば、「短日」の句は箱根で詠まれたようです。旅先では周囲の風景への意識が敏感になります。山間部では、冬の日の短さはいっそう強く感じられるでしょう。暗がりに目をやりながら、川のせせらぎに耳を傾けている万太郎の姿が目に浮かびます。
「野菊」の句は、上述の友田恭助の訃報が届いたときに詠まれたものです。友田の妻の田村秋子によれば、友田は出征のとき、子どもを抱き上げて記念写真に収まったそうです(本文末の付記参照)。1937年9月20日に応召した友田は、わずか2週間ほど後の10月6日に戦場に斃れました。
「春の夜」の句はよく知られています。しかし、あまり知られていないのは、この句に見られるような万太郎のモダンな感覚です。句集『道芝』の跋文に、少年時代は与謝野晶子や薄田泣菫に傾倒していたと記す万太郎が、たんなる守旧派であるはずがありません。戯曲についても、描いている世界が古めかしいので誤解されやすいですが、作劇術には古臭さを感じないということで三人の意見は一致しました。
「おでんや」の句には「浅草」という前書があります。朝早くから仕入れに出かけねばならない寿司屋の主人が、へべれけになっている。なにか慶事があったのでしょうか。いや、万太郎の描く世界では、酔っ払って忘れてしまいたいことである方が可能性が高い気がします。なお、Aさんによれば、万太郎には弁天山美家古寿司の三代目を主人公にした「あしかび」という作品があるとのことです。
「朝寒」の句を、Bさんは旅吟だろうと想像します。中七の「はるかに」という副詞ひとつで、万太郎が旅先で目にした広大な景色が読者の目にも見えてきます。
「汐干」の句は、潮干狩からの帰路の情景でしょう。楽しみにしていたことが終わったときの一抹のさびしさが、「なつかしや」という甘い懐旧の情とともに詠まれています。
最後に自分の選です。
谷岡健彦選
もち古りし夫婦の箸や冷奴 (9)
校長のかはるうはさや桐の花 (55)
春麻布永坂布屋太兵衛かな (71)
さる方にさる人すめるおぼろかな (74)
草の花ひたすら咲いてみせにけり (88)
春水のみちにあふれてゐるところ (107)
おもふさまふりてあがりし祭かな (113)
夕端居一人に堪へてゐたりけり (149)
飲めるだけのめたるころのおでんかな (200)
親一人子一人蛍光りけり (246)
「冷奴」の句は、蕪村の<御手討の夫婦なりしを更衣>を彷彿とさせます。「もち古りし」が「夫婦」にも「箸」にもかかるところが巧みです。
「桐の花」の句を読んで、自分は根拠なく「この校長は戯曲『大寺学校』の校長だ」と思いました。この意見にAさんが即座に同意してくれたのがうれしかったです。
「春」の句は、以前、麻布十番の蕎麦屋「永坂更科 布屋太兵衛」に「銀漢」のメンバーで出かけて句会をしたことをなつかしく思い出して採りました。
「おぼろ」の句は、『朧夜の女』を撮影中の映画監督、五所平之助に、久保田万太郎が贈った句です。後年、五所平之助は自分の句集の扉にこの句を掲げています。五所平之助のファンの自分には外せない句です。
「草の花」の句は、Aさんの選と重なりました。意見もほぼ同じです。付言するとすれば、水谷八重子や花柳章太郎といった大看板だけでなく、こうした「草の花」のような俳優にいたるまで芸の充実があったからこそ、当時の新派は人気があったのでしょう。
「春水」の句は、万太郎にはめずらしい只事すれすれの写生句です。波多野爽波の<鳥の巣に鳥が入つてゆくところ>を想起させます。自分の少年時代(1970年代前半)も、春先はよく道がぬかるんでいました。
「祭」の句は、いかにも東京の祭という感じがします。天気を詠んでいるのですが、祭に参加する人たちの気っぷのよさをも描いているようです。
「端居」の句は、端居をして涼んでいながら、本人は少しも涼しく感じていないのが面白く思えました。ただ、晩年の<煮大根を煮かへす孤独地獄なれ>とは違い、まだ自分を客観的に見るユーモアがあります。
「おでん」の句は、少し前に堀切克洋さんから銀漢亭の思い出を書いてくれと言われたときに引用した句です。Bさんが言うには、「おでん」が動きそうで動かないとのこと。たしかに、「冷奴」や「牡丹鍋」では、街の酒場に腰を落ち着けて飲んでいる雰囲気は出ません。
「蛍」の句もAさんと選が重なりました。内容に関しては付け加えることはありません。リズムに関しては、「…ヒトリ、…ヒトリ、ホタル、ヒカリ」という三音の単語(それも全部ハ行で始まってラ行で終わる)の連続が心地よく感じられました。
こうして三人の選んだ句を並べてみると、あまり選が重なることがなく、やはり同じ結社に属していても俳句の好みは多様だなと思いました。あと、<神田川祭の中をながれけり>のような超有名句は、このような機会だと逆に選びにくいと、三人とも思っていたようです。また続きの会を開きたいと考えています。
(付記)本文をアップした後に、Bさんから「野菊」の句についてお調べになった資料が送られてきました。角川の『俳句』の久保田万太郎の追悼号に、友田恭助の妻、田村秋子が寄せた文章です。引用して、ご紹介しておきます。「子煩悩の句も、友田がいつも子どもを左腕に抱いている姿をごらんになつていましたし、工兵隊でも子供を抱いて原つぱの人ごみの中を縫いながら調子をつけて歩いている格好に、『まめだね、友田君』ぽつんとおつしやつて、じつと眺めていらつしやいました」。(田村秋子「三つの句」『俳句』昭和38年7月号)
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