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仏教とは悪魔崇拝である

はじめに

昨年の5月に祖母が亡くなってから、初七日の日を最後に祖母の遺骨が埋葬されている納骨堂に足を運んでいません。

復活があると学んだからというのもありますが、仏教は悪魔崇拝であると気づいたからです。

僕の実家は浄土真宗・西本願寺です。

日本で一番多い宗派という事になりますね。

例外なく、西本願寺もアウトです。

"9ヶ月""辞任"、ロンメルのサインですね。

しかも「池田」という名字であり、おそらく李家の人間でしょう。

宗教と呼ばれるものの本質は全て「悪魔崇拝」でした。

仏教も例外ではなく、悪魔崇拝となります。

聖書では全ての偶像崇拝を禁止しています。

簡単に言えば創造主以外は悪魔であり、創造主以外を信仰するなという意味です。

今回は仏教と悪魔崇拝が、いかに関係しているか詳しく解説していきたいと思います。



仏教とは悪魔崇拝そのものである

ダライ・ラマ14世

世界三大宗教である「キリスト教、イスラム教、仏教」。

キリスト教ではローマ法王、そして仏教ではトップがダライ・ラマですよね。

ダライ・ラマとはキリストと同じく人名ではなく、一つの称号です。

ダライ・ラマの意味について
ダライ・ラマとはモンゴルの称号で「大海」を意味し、歴代の転生者は、仏陀の持つ慈悲の心の象徴である観音菩薩の化身と信じられている。菩薩とは、悟りを開いた覚者でありながら、涅槃に入らず有情を救済するために転生することを誓願された存在とされている。

悪魔崇拝者は小児性愛者である事を、みなさんはご存知ですよね。

観音菩薩の化身である、ダライ・ラマの真の姿をご存知の方も多いかと思いますが、改めて紹介します。

こちらの動画も酷いのですが、次の動画は悍ましいものがあります。

こちら。

これでも慈悲の心をもった観音菩薩の化身なのでしょうか。

まぁ、世の中で「聖人」とされている連中はこんなもんです。

そもそも仏教とは日本古来から伝承されてきたものではありません。

大陸から入ってきた偶像崇拝です。

お寺の息子であり、著名な芸能人である「今田耕司」の動画です。

悍ましい内容ですが、芸能人やマスメディア関係者の醜悪さが集約されていますよね。

関西の方には申し訳ないのですが、関西の笑いが粗暴で、いじめを助長している様で昔から嫌いでした。(ダウンタウンの登場により、学校でのいじめが激増したそうです)

今田耕司の耳を見てください。

寺の息子が「朝鮮耳」なんですよ、分かります?

ペドフィリアで、朝鮮耳。

全ての宗教団体が税金を免除されている時点で、正体がわかりますよね。

つまりお寺も「田布施システム」の一部という事です。

火葬が日本をダメにした?

そもそも日本には古神道(古代キリスト教)がありました。

明治6年に制定された火葬禁止法が制定されたのは古神道側が、火葬に対して猛烈に反対したからです。

それでも、たった二年で解除されているんです。

解除された要因となったのが、江戸で流行った伝染病である「コレラ」です。

コレラは当時「虎狼痢」(コロリ)と呼ばれ、江戸末期から明治期にかけて、国内で何度か流行を繰り返してきました。

この頃の葬法は基本的に土葬ですが、コレラや同時期に流行した麻疹など伝染病の死者の場合には火葬されたことも多かったようです。

ちなみに現在の日本の火葬率は99.97%。コレラや麻疹など感染症の流行をきっかけに明治期から徐々に法律がつくられていきました。

その後、人口増加による土葬スペースの不足や火葬技術の発展によって徐々に火葬が増えていき、一般に火葬が普及したのは第二次世界大戦後になってからのことです。

つまり、GHQが入ってきてからということになりますね。

なぜ、コレラが流行ったのか、もうお察しですよね。

これも聖書信仰の国であった日本を侵略するための、イルミナティ側の計画だったのです。

一言で言うと、火葬とは聖書否定であり「復活」を否定する事ですね。

「土葬」はキリスト再臨の為に、遺体を残しておくという復活信仰からきています。(もちろん、ほとんどのご遺体は数ヶ月したら白骨化しますので火葬と変わらないといえばそれまでですが)

土葬を否定するという事は「死んだら無に帰る。だからご遺体は燃やしていい」という発想になります。

火葬を普及させた事が、今日の日本で無神論者が大半となり、日本人の精神や肉体が荒廃した大きな要因の一つでしょう。

日本では正月に初詣に出かけ、お盆には帰省し、ハロウィンには仮装パーティーに出かけ、クリスマスはデートや家族で楽しむ、世界中の宗教を受け入れている寛容な民族だとお花畑の輩が吹聴しています。

ただのイルミナティに洗脳されて操られている愚民であることも知らずに。

正月の初詣はイベントを作りたかった鉄道会社によって作られたものであり、お盆の帰省もお寺の商売の為、ハロウィンとクリスマスに至っては表ではバレンタインの様な商業目的ですが、裏ではただの悪魔崇拝が行われていたという事です。

人は死に向かって生きています。

「死後は復活するから、律法を守って正しく生きよう」

「死んだら無になるから、なんでもあり」

聖書に沿って生きるとは、律法を守って生きる事です。

終わりよければ全てよしという言葉もある通り、死とはこれまでの人生の総決算となります。

死後は復活があるから人として正しく生きようと思うか、死後は無になるから自分の欲望の赴くままに生きようと思うかでは雲泥の差があります。

実際に、聖書を知らなくても、人として正しく生きた方々は千年王国へ、無に帰ると思い欲望のままに生きてきた人間はロンメル、ニュルンベルク裁判の対象者となり吊るされます。

欧米で無神論者は「サイコパス、大量殺人鬼」の様な扱いを受けるのは当然といえば当然でしょう。

日本人が世界でも無神論者が多い理由もGHQによる洗脳行為によるものです。

今回の新型コロナワクチンによる死者数が世界で一番多い国となった大きな原因の一つとして「火葬」にあるのではないかと思います。

それだけ火葬と土葬には違いがあるという事です。

それでは、そもそも仏教とは何なのでしょうか?

仏教とは?

菩薩


「仏教」には大きく分けて「顕教」と「密教」の二つがあります。

「顕教」とは、いわば人前で秘密にせず明らかに説かれる教えのことを言います。

一方の「密教」は、余りに奥深い教えであるがために、人前で容易に明らかにできない教え、とされています。


「顕教」は釈迦如来が説いたものとされていて、「密教」は大日如来が説いたものとされているそうです。

しかも、この大日如来は「天照大神」とも同一視されているそうです。つまり「密教」の教えは「天照大神」が説いたもの、というわけです。いやはや。「天照大神」は「悪魔」であるとはっきりと公言したも同然ではありませんか。

天岩戸神社は天照大神が隠れた天岩戸を祀っているとされていますが、こちらの神社の紋章に注目してください。

こちらは、昨年の今頃に参拝に行ってきたポストです。

気づいて以来、参拝には行っていません。

お気づきでしょうか、皇室の家紋ですね。

天照大神はルシファーであり、皇族は悪魔崇拝者ですからね。

また脱線しましたね。


このように、人前では「顕教」を説いて善人を装い、陰では「密教」を説いてこそこそと淫乱なことを行うのが「真言宗」ということになります。

四国には、空海の作った「四国八十八箇所」があり、今でも多くの人たちが「八十八箇所」参りをしています。

彼らのほとんどはきっと「密教」がどんなものであるのか、その本質を知らず、ただ「顕教」という表向きの教えだけを聞いて「空海」を尊敬し、八十八の神社をお参りすることで、すべての悩み(煩悩)から解放され、人生を幸せに生きられると信じ込んでいます。

しかし、残念ながら、「空海」はただの悪魔崇拝者ですから、いくら「四国八十八箇所」を一生懸命お参りしたとしても、何の御利益もありません。

もしあるとしたら、「神社仏閣をいくら詣でても何の意味もない」という悟りを開けることぐらいでしょう。

実際、そういう話を八十八カ所巡りをした人から聞いたことがあります。(もちろん、個人差はあるでしょうが。)

いやいや、「空海」は絶対にそんな人ではない、と言う人がいるかも知れませんので、一応、真言宗の各派で読誦されている怪しげな経典の一部をここでご紹介しておきましょう。

真言密教には「理趣経」と呼ばれる経典がありますが、この中にはこんな文言が書かれています。

妙適淸淨句是菩薩位 – 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
慾箭淸淨句是菩薩位 – 欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である
觸淸淨句是菩薩位 – 男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である
愛縛淸淨句是菩薩位 – 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である
一切自在主淸淨句是菩薩位 – 男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である
見淸淨句是菩薩位 – 欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である
適悅淸淨句是菩薩位 – 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である
愛淸淨句是菩薩位 – 男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である
慢淸淨句是菩薩位 – 自慢する心も、清浄なる菩薩の境地である
莊嚴淸淨句是菩薩位 – ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である
意滋澤淸淨句是菩薩位 – 思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である
光明淸淨句是菩薩位 – 満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である
身樂淸淨句是菩薩位 – 身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である
色淸淨句是菩薩位 – 目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である
聲淸淨句是菩薩位 – 耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である
香淸淨句是菩薩位 – この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である
味淸淨句是菩薩位 – 口にする味も、清浄なる菩薩の境地である


見ての通り、およそ半分が「性的」な行為を礼賛する文言で埋められています。


しかも、このような経典から「真言立川流」などと呼ばれる過激な宗派が誕生することになったわけですが、この「立川流」がどんな気の狂った宗派であるかは、ウィキペデアにもやはり堂々と書かれてありました。

以下、Wikipediaより転載


経典は般若波羅蜜多理趣品、空海が将来した所謂理趣経(りしゅきょう)で、荼枳尼天(だきにてん)を拝する。

本来仏教では性交は不淫戒で誡められているが、密教では瑜伽タントラの理趣経や多くの無上瑜伽タントラによって肯定されており、性交を通じて即身成仏に至ろうとする教義解釈がある。

ただし、日本には瑜伽タントラまでは多く伝わっているが、具体的に性交を論じた無上瑜伽タントラは部分的にしか伝わっていないため、立川流を除く多くの密教では性交には否定的である。(註:今も言ったように、これは真っ赤な嘘ですね。)

特に髑髏本尊は大頭、小頭、月輪行などの種類があり、この建立に使われる髑髏は王や親などの貴人の髑髏、縫合線の全く無い髑髏、千頂といって1000人の髑髏の上部を集めたもの、法界髏という儀式を行って選ばれた髑髏を用いなければならない。

(註:突然、ドクロが出てきて困惑します。要するに、ドクロ(死体)がなければこの「立川流」は成立しないわけです。カタコンベにドクロが集められたのも、やはりこのような儀式を行うためだったのでしょう。)

こうして選ばれた髑髏の表面に性交の際の和合水(精液と愛液の混ざった液)を幾千回も塗り、それを糊として金箔や銀箔を貼り、さらに髑髏の内部に呪符を入れ、曼荼羅を書き、肉付けし、山海の珍味を供える。

しかもその行の間絶え間なく本尊の前で性交し、真言を唱えていなければならない。(註;まさに気が狂っていますね。これを悪魔崇拝と言わずして何と言えばいいのでしょうか。)

こうして約7年間もの歳月を費やして作られた髑髏本尊はその位階に応じて3種類の験力を現すという。下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して三千世界の全ての真理を語るという。

しかし、この淫靡な儀式の奥には別の真実が隠れている。理趣経は本来男性と女性の陰陽があって初めて物事が成ると説いている。この儀式に7年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が悟りを得ることがその目的だからであり、そうなればもはや髑髏本尊など必要なくなってしまうのである。

立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になることである。この点において、「女性は穢れた存在であり、仏にはなれない」と説いていた既存の宗派と異なる。

紛れもない悪魔崇拝です。

もっとも、この「立川流」は表向き、その余りに過激な内容のせいで江戸時代に断絶したということになっていますが、ウィキペディアにははっきりと「その独特の教義は仏教の各派に多くの影響を残し、後の日本の密教思想の形成の大きな遠因となっている。」と書かれてあります。

つまり、この「立川流」のような悪魔崇拝は今でもこの世の中でひそひそと横行しているというわけです。

さらに「密教」では、「灌頂(かんじょう)」という儀式が行われます。

この儀式は「頭頂に水を灌いで緒仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式」とウィキペディアでは説明されています。

しかし、それはあくまで表向きの話であって、実はこの「灌頂」、そんな生易しいものではありません。

日本仏教世界の暗部



灌頂(かんじょう)とは仏教用語である。

古代インド文明(古代インドはブッダの生まれた場所であり、仏教発祥地である。)のサンスクリットでアビシェーカabhiṣekaまたはアビシェーチャナabhiṣecanaという。

もともとはインド世界での大王や立太子が即位する時の『洗礼式』で(清めの儀式)四海(天下ノ意)の水を頭頂に注ぎ四海世界人(全世界の支配者すなわち皇帝)となぞらえられたのだそうだ。

お地蔵さまなどに水を描けるような感じであると思われる。

その潅頂の儀式はインド仏教に伝わり、徳の高い僧侶(高僧)や聖人などの洗礼式となった。大乗仏教では最後の修行を終えた菩薩(仏陀)が悟りを開いて仏になるとき、諸仏から智水の灌頂を受けて成仏するものとされる。

しかしここから話がおかしくなってきます。

日本の仏教ももちろん灌頂儀式は広まりました。

しかしそのうちに天台宗や真言宗などでは剃髪しない少年修行僧(7〜18歳)の稚児との慰め(性行為)を合法的に行うため儀式として仕立てたんです・・。

どのように合法的かというと、日本の仏教の戒律では生身の人間との不邪淫戒は禁じられているが、この稚児(少年)に灌頂の儀式をするということによって天台宗や真言宗では観音菩薩の化神となってしまい、生身の人間ではなく『この世の無い至高の者』となるので信仰の対象としての稚児を崇拝しそれと交わることはかまわないということらしい・・・。

皇族や上位貴族の子弟が行儀見習いなどで寺に預けられる「上稚児」

頭の良さを見込まれて世話係として僧侶に従う「中稚児」

芸道などの才能が見込まれて雇われたり僧侶に売られてきた「下稚児」

この中で稚児灌頂の対象になるのは中と下である。

結局この習慣は日本仏教世界に秘密裏のうちに広がりまくり、美少年の稚児ばかり目立つようになったという・・・。


要するに、日本の仏教もまたバチカンと全く同じ状況というわけです。

というか、悪魔崇拝者たちが根っこにいるならば、どの宗教も似たり寄ったりの状況になってしまって当然でしょう。

そこで、さらに「密教」について掘り下げて調べてみると、密教には「金剛密教」というものがあり、この「金剛密教」の経典にもあからさまに性的、邪悪なことが書かれてありました。

以下は、「ヘーヴァジュラ・タントラ」という経典の内容の一部になります。

「ヘー」とは呼びかけの言葉、「ヴァジュラ」は「金剛」を意味し、漢字では「呼金剛」「喜金剛」と訳されるそうです。

第一儀軌

第1章は、導入部であり、経典中で最後に成立したと考えられる最も整理された内容となっており、世尊が聴衆の中の金剛蔵菩薩に対して、金剛薩埵とへーヴァジュラの名の由来、タントラを説く理由、32の脈管、4つのチャクラ、経典中の各種の主題が4つの構成要素から成ることなどを述べる。

第2章では、散文のマントラ集であり、「バリ」(精霊・餓鬼等を慰撫する施食など)の儀礼のマントラ、五仏、へーヴァジュラ、ヨーギニーへのマントラ、結界、降伏、遮止、追放、離間、呪殺、鉤召などの修法のマントラ、請雨法と止雨法の儀礼のマントラ、撃退法、焼殺法、吐瀉法、誘惑法、日月支配法、紛失物発見法、動物解放法といった呪術の儀礼のマントラなどが、説かれる。

第3章は、へーヴァジュラとダーキニーの観想、及びそれとの合一の次第。

第4章は、前章の内容を受けた、加持の次第。

第6章は、歌舞・飲食の儀礼が説かれる。「ヘールカ」(へーヴァジュラの原型、シヴァ神的な左道タントラの愛欲秘密仏)に扮し、夜、木が一本だけ立っている所、墓場、母の家、ひと気のない郊外などで、「金剛部」尊格の女尊にしつらえた若い女性パートナーを侍らせ、歌舞・飲食を行う等。

第7章は、死肉や、七生人(7回生まれ変わって十分に善根を積んだ者)の肉を食す等。

第8章は、へーヴァジュラを主尊とする十五尊マンダラの次第。

第10章は、秘密灌頂など。

第11章は、クルクッラーという女尊の成就法。

■第二儀軌

第1章は、金剛蔵菩薩の質問に対して、世尊がプラティシュターという入魂法の儀礼の解説を説く。護摩、マンダラ、供物など。

第3章は、世尊が金剛蔵菩薩に対し、空・自性清浄の思想と共に、徹底した破戒を説く。殺戮、嘘言、窃盗、姦通、肉食、等々。また、隠語の列挙。

第4章は、前章を受け、「毒を以て毒を制す」かのごとく、破戒的実践によって無知・無明から解放されることを説く。

第5章は、集団儀礼を説く。マンダラの八方に配置した12歳・16歳の女性を、抱擁・接吻で供養、精液を口に含みマンダラ上に散布、女性にも飲ませる、酒・肉の摂取、女性達を裸にして女性器に何度も接吻、女性達は歌舞で返し、性的ヨーガを行う等。また、灌頂関連。(註:昨日の記事に書いたことですね。)

第6章は、女尊(ヨーギニー)の問いに答える形でへーヴァジュラが密儀的な尊像絵画法を説く。カパーラ(髑髏杯)を絵具容器、死体の毛髪を筆と画布に、ひと気の無いところで、新月前夜、裸に人骨装飾具を着け、酒を飲み、女(ムドラー)を侍らせ、不浄物を食べながら描く等。(註:さらなる気違い沙汰です。要するに「立川流」ばかりが危険ではないということです。)

第7章は、前章と同じく、密儀的な経典筆写法が説かれる。貝葉に蜜のインク、人骨のペンで書く等。後半には、饗宴的集団儀礼の様子。へーヴァジュラの自身を中心に、八方にダーキニーの女性行者を配置した九尊マンダラ等。

(註:人骨のペンとか当たり前のように出てくるのが意味不明です。しかも、「饗宴的集団儀礼」というのは、要するに乱交パーティのことでしょうか。)

これ、Wikipediaに当たり前に書かれている事ですからね。

「密教」信者たちは普段からこういったことを当たり前のように行っていた(あるいは行っている)ということなのでしょう。

まとめ

いかがでしたでしょうか、全ての宗教は悪魔崇拝であり、ビジネスであったというだけの事です。

小児性愛も根深く絡んでおり、どこまでいっても闇が深いものです。

この真実を知ったからこそ、大切な祖母の骨が納められているとはいえ近づきたくなかったのです。

そこのお寺の住職が金に汚いということもありますが、先代も先先代も汚なかったらしいので宗教で飯を食っている輩はそんなもんだという認識です。(今の住職は僕と同級生で中学生時代にサッカークラブのチームメイトでもありました)

もうすぐ宗教ビジネスも「復活」によりなくなります。

Yahooニュースにも匂わせる記事が、お盆の頃に出ていましたよね。

その時も来月に迫ってきています。

残り17日となりましたね、楽しみです。

それでは今回はここまで。
ありがとうございました。

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