「死の練習」の読書メモ
「死の練習」を二回目読み終わりました。
一回目は昨年の10月に、二回目は先月末読み終えたので書いときます。
この本は自分にとって重要な位置づけの本です。
メモを書いたのは、やはり感動したからというのもありますが、「アクティブリコール」がどの程度できるか書いて試したかったからというのもあります。
「私は存在している」の主語「私」を自分をさす語、あるいは他者もそれぞれ己自身をさす語なのだということを認識し、受け入れることは「超越論的統覚」を獲得することだ。それぞれ主体であるS1、S2,S3に応じて固有の身体K1、K2,K3(Körper)を持っている我々は、「超越論的統覚」を獲得する前すなわち言語を習得する前には有機体s1、s2,s3として「私という感じ」(Gefühl)をそれぞれ所有していた。しかしそれ(私という感じ)は各々が言語を獲得したことにより消滅してしまう、というより獲得以前のたんなる有機体に逆戻りすることはできない。「私」は「私ではない」という言語外的否定関係によって成り立っている。「これは犬ではない」とか「この犬はプードルではない」という命題は言語内的否定だ。言語の内部、文章の内部で否定関係を表示しているから。しかし「私」は「私は~である」という文の主語にあたる役割を獲得してしまったが最後、それが理性や言語を持つ者たちのあいだで共通了解として認識されてしまったが最後、「私という独特の感じ」を失う。言語習得前の独特の「感じ」である。言語習得後の「私」は超越論的統覚として、この世界のさまざまな事象を規定し、意味づけ、分類する存在者として機能する。自分が自分を「私」と呼ぶことを世間は了承し、あなたも他者が自分をそれぞれ「私」と呼ぶことに違和感を感じない。言語ごとに「私」、「I」、「Ich」、「Je」と異なるだろうが己自身を指す主語だということをわかっている。これが「私」が超越論的統覚になるということなのだ。