【note49】2023年のスタート:教師として、人として「当事者意識」について考えたこと
当事者意識とは!?
私が担当する探究学習では「当事者意識」を持って、社会で困難に直面する人を笑顔にするプロジェクトをメインとして扱っている。しかし、実際にはこの「当事者意識」というものが本当に難しい。「当事者意識」は社会のあらゆる場面で強調される。「もっと当事者意識を持つべきだ」「当事者の立場で考えるべきだ」など。それ自体は決して間違えていることではなく、自分本位の視点だけでなく他者の視点・立場に立って物事を思考し、行動することは大変重要なことだと思っている。だからこそ、探究学習の場面でも、「いかに当事者意識を持つことができるか?」を重視している。ところで、当事者意識とはそもそも何だろう!?
*当事者意識
家族の問題、勤め先の問題であるならば比較的、当事者意識は持ちやすいと思う。それは何らかの影響を目に見える形で(時には利害損得を持って)自らに与えてくるためだろう。いわば手の届く範囲内であれば、当事者意識は持ちやすいともいえる。もっとも学校内のいじめや社内のハラスメント問題など自らの関係する場であっても傍観者となり、当事者意識を持たないことは多々あるし、「誰かがやるんじゃないか」という他人ごと(⇔当事者意識は「自分ごと」と考える)思考は決して珍しいものではない。さらに自分の手が届かない、見えにくい問題、利害損得が直接に関わらないと感じる(実際は違うとしても)問題については、どんどん当事者意識が下がっていく。つまり「自分ごと化」できなくなる。ヤングケアラー、待機児童問題、誹謗中傷問題、育児、貧困(全て探究学習で扱ったテーマである)…。関係している人にとっては極めて深刻な状況であるが、当事者でない場合に対岸の火事になりやすい。「可哀そうだね」「辛いね」「悲しいね」で終わっては、その先に何かが生まれることはないだろう。生徒達にとっても「自分ごと」にするプロセスが最も難しかったのではないかと思う。
当事者意識の危うさ
繰り返しになるが当事者意識そのものは多様な現代社会を生きる上で極めて重要な思考であると思っている。しかし、そこには同時に危うさがあるように思う。社会課題探究を行う上で、「他者の困難を自分達で勝手に作り上げない」というポイントがある。つまり、「おそらくこんなことに困っているんだろう、こんなことに苦しんでいるだろう」と根拠もなく自分達の想像だけで作り上げてしまうことなのだと思う。そうなると、私達は事実を見誤ることになる。場合によっては他者を傷つけたり、他者の尊厳を奪うことになるかも知れない。「分かったつもりになる」ことには十分に留意しなければならない。
何から始める!?
当事者意識を持つために、最初にすべきことは現状を知ることだろう。手段は統計やデータだけでなく、映画、ドキュメンタリー、報道など多岐に渡るが、様々な課題、状況をまずは自分の手の届く範囲に手繰り寄せる。同時に自分の目に入るものが全てではないことも意識しなければならない。ここにも「分かったつもりになる」罠が潜んでいるように思う。ただし、理解するためのフックを作ることは大変重要になる。昨年の生徒達の中に「全盲の方を救うためのテクノロジー」というプロジェクトに取り組んだ生徒達がいたが実際に目隠しをして、校内を疑似体験していた。ヤングケアラー問題に取り組んだ今年の生徒達はNPOにコンタクトを取ることを試みた。いずれも、自分達から接近しようとする営みであり、こうしたことも大切なことだ。
当事者意識を持つことはできるのか?
当事者意識を持つことと、当事者になることは当然ながら違うものだ。当事者になることはできない。ここで1つの例を挙げる。生命倫理(バイオエシックス)の中でインフォームドコンセントという言葉が登場する。かつてのパターナリズム(家父長制的な思考)による医療ではなく患者自身が治療の選択権や同意権を持つという考え方だ。教科書的な説明を読むと「なるほど大切だね」となるが物事はそれ程、単純なものではない。
*自身の経験から考えること
数年前に闘病の末、亡くなった父のことを思い出す。果たして、父には医療に対する主権が最後まで保障されていたのだろうか…。健康な時から終末期医療については話すことがあり父の考えは概ね理解しているつもりだった。
だからこそ、自分が父の代わりに選択しなければならない場面であっても、病に直面する当事者ではなくても、最終的には「それでOKだ!」と言ってくれると信じていた。しかし、あの時の選択は正しかったのかと今でも考えることはある。もっと別のことを望んだのではないだろうか、病と闘う父に当事者意識を持って向き合えなかったのではないだろうかと思うこともある。その時から、人は本当の意味で当事者意識を持つことができるのだろうかと考えるようになった。
最近読んだ本で何気ない日常と幸福を大切にすることを改めて思い起こさせる一冊だった。人の強さ、弱さ、優しさ、温かさを感じた。私も同じ癌を患う家族(両親)を抱えていたが、状況は全く違う。これを読んで単純に、「すごくよく分かる!!」とはならない。そんなに簡単に理解できるものではない。しかし、患者(みどりさん)の思い、考え方に触れて、「父もこう考えていたのかも知れない…」と想像することはできた。だからこそ、心に響くものがあった。この時、「もし子どもを持つ自分がみどりさんの立場だったら、どう考えるだろう」と思った。
if(もし私が~だったら)
当事者意識を育む上で1つのポイントとされるのが、ifの思考である。「もし私が~だったら…」と想像して考えてみることだ。自分が経験していなくても、様々な情報(もちろんフェイクは除き)に触れる中でifの思考を持ってみる。想像してみる。これが始まりになる。そこから派生し、情報をキャッチしたり、場合によっては現地に赴いたり、可能であるなら直接、対話してみたり…そうして少しずつ当事者としての意識を育んでいくことができるのではないだろうか。そうすると「もし私が~だったら・・・と考えるかな」と続きが生まれるように思う。
当事者意識を持つために
だからこそ、時々ifの思考を持ってみることは大切であると思う。自分が大切に考えていること、響くこと、何だか引っかかることetc琴線に触れるというと大げさかもしれないが、要は自分の心にスッと触れてくるものを大切にしてみることを忘れるべきではない。あらゆることに当事者意識を持つことは恐らく困難である。でも、身近なこと、心を引っ張るものに対して少し考えてみること。そして、その思考が全てではないと自覚すること。ifの思考を持って想像を広げてみること…こうした地道な作業の下に当事者意識は育まれるのかも知れない。当事者意識を育むためには長い時間がかかる。それは民主主義を育てる営みに近いのかも知れない。即効性のあるものではない。だけれど、この社会を生きる上で大切にしなければならない価値観だ。それを生徒達とじっくり考える機会を少しでも作っていくことが学校という場所で働く自分の役割の1つかなと思う。