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[note45]子どもの遊びもSustainableであって欲しい!

子どもの声がうるさいから公園が廃止…それでいいの?揺れる長野市の現地で徹底取材

12月2日の信濃毎日新聞の記事の上記のタイトルの記事が掲載された。
自分達とは(1978年生まれ)、随分違ってきているんだな…というのが率直な感想。時代が違うと言えばそれまでだが、学校が終われば基本的に校庭や公園で17:00のチャイムが鳴るまで遊んだのが日常だった。当然、自分達の声のボリュームなど気にすることはなかったし、ボール遊びも余程のことがなければ禁止されることはなかった。今は外遊びがしにくい時代になった。「そこに居住していない立場で一つの記事から批評するべきではない」という考え方もあるだろうし、そうした立場を無視し、一方的に権利を主張することは、もちろん公正とは言えない。この投稿にしても、客観性を欠いていると言われれば、その通りかもしれない。だが、この記事に限らず、最近の社会は全体的に「寛容性」を失っているように思う。その対象が子どもであることも多いのではないだろうか。

外遊びは寸断されるのか?

外遊びが難しくなったのはいつからだろう。騒音問題もそうだが、「危険」であるという指摘から遊具が撤廃されたり、必要以上に遊びに規制がかかるようになったのは、2000年代に入ってからだろうか…(個人の印象だが)。公園という公共財を管理するのが公的機関であっても、民間機関であっても、「危険」を配慮することは当然のことだろう。記事にあるような騒音や埃についても同じことが言える。ただし、そこでオールorナッシングで物事を考えるべきなのか。つまり、良い×悪い/存続×廃止という選択で物事を決定することは、公正と言えるのか。そして、現世代の間の公平性だけでなく世代間の公平性を損なっているとは言えないか。つまり、かつての世代は、外遊びを気兼ねなく出来ていた。ところが、今の世代は外遊びそのものを奪われている。ここには大きな利害のアンバランスが生じているようにも感じられる。

子どもの遊びのSustainability

持続可能な開発目標(SDGs)を代表するように現代社会のキーワードの1つが持続可能性(Sustainability)である。そうであるならば、子どもの遊びもSustainableであるべきではないだろうか。繰り返しになるが、「だから公園の廃止を主張することが誤り」と言いたい訳ではない。利益と損害の衝突は社会には必然であり、だからこそ議論、対話、合意が必要になる。そうして双方の落としどころを探るのが本来の社会の在り方、民主的な社会の原則であるはずだ。今回のケースに限らず、こうしたプロセスは果たして機能しているのだろうか。

子どもの遊ぶ権利-子どもの権利条約第31条-

・締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。
・締約国は、児童が文化的及び芸術的な生活に十分に参加する権利を尊重しかつ促進するものとし、文化的及び芸術的な活動並びにレクリエーション及び余暇の活動のための適当かつ平等な機会の提供を奨励する。

子どもは「遊ぶ権利」を持つことはあまり意識されていないかもしれないが国際条約において明確に規定されている。子どもに対して、「静かに遊びなさい」「埃を立てないで遊びなさい」というのは正直な所、ナンセンスだ。それは子どもに求めるべきことではない。権利衝突において受忍限度という概念がある。ある被害の程度が社会通念上我慢できる範囲であるかどうかを示す基準である。今回のケースにおいて、司法判断が出ていない以上、受忍限度を超えるものであったのかは分からない。そうであったかもしれないし、そうではないかもしれない。しかし、子どもにはそうした責任を帰すべきではない。それは、「大人」の責任であるべきものだ。もちろん、一定の年齢を超えてくればモラルやマナーを子どもたちに伝えることは必要になる。ただし、「場」がなくなるということは、やはり大人が責任を負うべきことだろう。

Sustainableな社会

記事を読む限り、今回の閉鎖が苦渋の決断であったとある。今回の記事だけで、是非を問うことは難しい。問題は社会の持続可能性を構築するためには相当の時間を要することを私たちが認識すべきということだ。持続可能性とは、言い換えれば、「世代を超えて全ての人の幸福を目指す考え方」と定義できる。つまり、壮大な目標を私たちは目指していることを「子どもの遊び」という極めて身近な事例から再認識させられた。

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