米ナイキ、実は日本生れ

スポーツウエア・シューズでは年間売上5兆円に迫る確固たる地位を保持し続けるナイキですが、その誕生には日本が関わっていて初期のシューズはメードインジャパンだったという記事が日経新聞にありました。

モノつくりの匠の技で世界に発信していた日本の技術をいち早く注目してアプローチをかけたナイキ創設者フィル・ナイトさんのことを今日はみたいと思います。

技術と資金 支えた国内企業

鬼塚と日商岩井という2つの企業が支えたナイキの歴史を

*国内のスニーカー市場規模の変遷
*ナイキのシューズは日本の神戸から
*アメリカの銀行が見捨てたナイキを支える日商岩井

とみていきながら

世界のナイキ誕生に欠かせなかった日本のメーカーと商社、技術と熱意で花が開いた

という歴史をみてみたいと思います。

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*国内のスニーカー市場規模の変遷

経済産業省生産動態統計によると、2020年の靴の販売金額は前年比18.9%減の1,011億円でした。
内訳をみますと、リモートワークの影響で革靴が同19.0%減の551億円にとどまりました。

一方で健康志向の影響で、ウォーキングやランニングなどのスポーツシューズ、スニーカーの売れ行きは落ち込んでないそうです。

反対に、ファッションのカジュアル化が進んだことで『スニーカーブーム』が到来、靴業界の業績を後押しして、30%程売上が伸びているそうです。

国内のスニーカー市場規模の変遷をみてみると、

1995年は市場売上が年間5000億円あたりでした。
このころにエアーマックスが日本で流行しています。
「エア マックス95」は一足あたりの価格が30~40万まで高騰しました。

2001年市場売上が減って年間4500億円あたりでした。
この頃にナイキ商品は「エアーフォース1」などのストリート系がヒットしています。

その後2009年頃までゆっくり下降していた市場売上ですが東日本大震災後に歩きやすい靴に注目があつまり、売上が伸びだしました。

又、カジュアル化が進み、女性にも浸透していき売り上げはグッと伸びています。

*ナイキのシューズは日本の神戸から

ナイキ創設者のフィル・ナイトさんの自伝「SHOE DOG」では何度も「オニツカ」の単語が書かれています。

実はこのオニツカとの出会いがなければ、ナイキは生まれなかったのです。

*日本に憧れていた青年が偉業を

創業者のナイトさんは大学時代陸上選手で、卒業後はスポーツシューズ販売をやりたいと考えていて、日本のランニングシューズのクオリティに関心を寄せていました。
日本製のカメラがドイツ製を追い抜こうとしていたアメリカで日本のモノづくりの底力に興味を抱いたのです。

*鬼塚に直談判して契約に

1962年24歳フィルさんは、自分の想いを達成するために一目ぼれした「オニツカ」を訪問して、アメリカで販売したいと創業者鬼塚さんに直談判したそうです

その姿に鬼塚さんは「創業時にリュックを担いて全国を歩いた私の姿にダブった」と若いフィルさんの熱意に共感た結果、米国13州での販売権を獲得しました。

裏話エピソード

鬼塚の重役と初めて面接したフィルさんは「どこの会社からですか?」と聞かれて慌てたそうです。

会社には所属しておらず「会社員ではないです」と言えず、思わず口から出まかせに「ブルーリボンスポーツ」ですと言ったとのこと。

その後「ブルーリボンスポーツ」という名前で起業しました。これがナイキ前身に会社になりました。

*アメリカの銀行が見捨てたナイキを支える日商岩井

ナイトさんは販売するだけでなくオニツカに対して「こういう靴を作って欲しい」と様々な提案も続けて会社の売上は順調に伸びていったそうです。
3年後には自宅兼オフィスから専用オフィスを構えました。

7年後売上増だが銀行が融資を止めた

売上はその後も伸び続けましたが、少しでも多く靴を売りたいという思いから収益を全て靴の仕入れに回していたそうです。

その経営体制に銀行はトラブルが起きた時に破綻する事を恐れた「銀行の態度」に不満を感じたナイトさんは

経済紙で

「日本の商社は時にプライベートバンクとして、有利な条件で貸し付けもしている」

と知って、地元ポートランドにある日商岩井(現 双日)にアプローチをしたそうです。

日商岩井の担当だった皇(すめらぎ)さんは

アメリカにシューズメーカーが少なかったらか、ビジネスチャンスになるかも?

という感に掛けてみようと思ったそうです。

商品入荷などに日商岩井がサポートするようになったそうで、この年1971年にナイキを立ち上げたそうです。

しかしナイキを立ち上げて4年後に残高不足から引き落としが出来なかったナイキに銀行は取引停止を言い渡されました。

藁をも掴む気持ちで日商岩井の若い経理担当にお願いをすると、

銀行が僅かの損失を防ぐために、これから大きく伸びようとする企業からお金を引き上げようとしている、

その銀行の態度に腹を立てて権限規定無視で借金を肩代わりすることを決めて小切手を発行したそうです。

これがなければナイキはこの時点で廃業をしていたそうです。

現在の双日の藤本社長は当時を振り返り

当時の日商岩井の担当者も上司から「そんな会社になんで肩入れするのだ?」と言われていたと思うけど、熱意をもって論破して支援につなげた結果、今のナイキとの関係につながった、

と答えています。


世界のナイキ誕生に欠かせなかった
日本のメーカーと商社、技術と熱意で花が開いた

「ビジネスとは、金を稼ぐことではない」
とフィル・ナイトさんは語っています。

時にビジネスは技術だけでなく情熱で花が咲くものだと改めて思います。


ちょっと長いのですが、NHK BSの番組です

お勧め本

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