ギロチンライフ
昼過ぎの電車内。「ひとをぶっちゃダメなんだよ」とクレヨンかなんかで書かれたような中吊り広告が目に入る。
当たり前の注意喚起なんだけど、理由がないそのコピーに納得した人はどのぐらいいるだろう。これは酔っぱらった大人の乗客向けなのに、クレヨンで書く、ガキだと思ってなめ腐っとんのか、そんなことまで思う人は多分僅か。
こんなことを考えた事はあるだろうか。
人間って一生、刃の下に生きている。
例えば人間関係がどうしようもなくもつれた時、不穏な空気になる、言い合いになる、けなしあいになる。そこら辺で大体、第3者がいなくなる。第3者がいなくなって、サシでのけなしあいになる。収まらない。激怒する、激高する、もうそこに会話はなくなる。暴力の応酬になる。で、最後に出てくるのが、包丁だったり、ナイフだったり。刃傷沙汰。
そうでなかったとしても、言葉のナイフはもうとっくに振りまくっている。単純な話、第3者がいるうちに解決するよう、刃傷沙汰は避けるべきなのだが、往々にしてそううまくいかないから、事件は減らん。
そんな物騒な人生を送らなかったとしても、人間大なり小なり老いれば病気にかかる。そんなシーンになった時、医者が持つメスに命を預けなければならなくなる。これは平和的ではあるのかな。
そんな前提がまかり通っているのだとしたら、正直な話、もっと他人に対して警戒しなければならない。
視界に入る全員が刃物を携帯しているのだから。
刃物を取り扱うときのことを考えよう。まず細心の注意を払う。刃に触れない、人に切っ先を向けない。柄をしっかりと握る。使ったら必ず、鞘に納める。あとは長物であれば、絶対に跨がない。
このことをしっかり叩き込まれて教育されてきた人って、どのぐらいいるのだろう。然るに、人間もそういう取り扱いをしなきゃならん、この刃物という主語に人間を代入したら、それって人間関係の処世術になる。
えらい物騒な記事になりました。最終的な結論としてはここ。
僕はあなたが刃物を持っていると思うし、あなた自体刃物のようなものだと思う。だからあなたの刃圏を見誤らないように、慎重に接したいと思っている。あんたもそうしろ。ってね。