開けない指先達の絶唱。
「三十分ぐらい遅れる」
待ち合わせの時間ちょうどに携帯を開くと、そんなメールが届いていた。
まあ、いつもの事か、達也が遅れるのなんていつも通り、早く着いちゃった俺の方が悪い。
とは言え、やる事は無いんだよね。
防具は部室に置いてきたから、黒革の竹刀袋を担いでいるだけ、なのだが、やっぱりこう人通りが多いと、人の目が気になってしまう。
達也が来た後のことを考えると、あんまり金使う訳にいかないし、どうせ今日も賭けるんだろうし、しょうがないか、と俺は街をぶらつくことにした。
駅ビルの中はみんな異常にキラキラしていて、でも何か、近寄り難くて、通り過ぎるだけでも、ガキだな、なんて言われているような気がして、ちょっとムカつく。達也は、歩くだけなら無料だろ、なんて話していたが、俺はまだ慣れない。何を買うでもなく外から店を眺め、一周してエスカレーターに乗る。いつかあの中に入って、店員と喋る。そんな事があるだろうか。
何フロアかそれを繰り返し、フロアの半分を使った、大きな本屋に入った。特に目当てのものがある訳じゃない。今日もまた、適当にファッション誌かなんか眺めて、時間を潰そう、と思った。
言葉に乗せて、考えを書くって、どういう気持ちなんだろうな。数日前、なんだか有名な街の文芸コンクールかなんかにうちの生徒が入選したとかで、全校生徒に冊子が配られた。
入選したのは俺の二つ前の席の奴。彰だったかな。小学校からの付き合いだけど、最近あまり話さなくなってしまった。確か、父親が突然亡くなった後、挨拶に行って、それからなんとなく、話しづらくなった。何か声をかけるべきだったがかける言葉が見つからない、そんなもんだった気がする。
そんな俺の後ろめたさとは裏腹に、彼の文章には寂しさと、それを乗り越えてゆく過程が、そして、今の社会への希望が書いてあった。
俺にも、書けるのだろうか。何か。
雑誌のページを繰る指を止め、店内を見渡した。
皆、何を求めているのだろう。
その日、一冊だけ単行本を買って帰った。ジャンルなんてわからないから、同年代の人が書いた本と書いてあるものを選んで買った。勿論カバーは付けてもらった。
帰ったら読もう。達也が来た時に、本を読んでいるのを見られるのは、ちょっと恥ずかしい。
「お前真面目かよー」なんて、ちょっと冷やかされるかもしれないし。達也はそういうタイプ。カラオケ行っても、ずーっと盛り上がる曲しか歌わない。有名なバラードも、歌の上手さを見せる為だとしか考えない。確かに、そんな面はある。響いてくる音より、上手く歌えている陶酔感の方が、勝ってる。
それは分かるのだけど、歌詞の気持ちを拒絶するのは、本当は難しいんじゃないか、そんな事を思う。
翌日、俺は本と竹刀袋を担いで、一人で近所の山に入った。そこで誰も来ないのを良い事に切り株を椅子がわりに昨日買った本を読んでいた。小説の主人公は、年齢、というステージの上で俺や、皆と同じように悩んでいた。
これって、どういう気持ちなんだろうな。
悩んでいたとして、苦しんでいたとして、それを書いたとして、俺みたいな奴に読まれるとして、そして、どこかで出会うとして。
著者は同い年の女子、それはいい。どこにいるのかすら知らない。けど一生通じて、この本を書く事を通して悩んで、苦しんでいた人、そういうイメージがついてしまう。成功したとして、転落したとして、この本が背景になっていると、どうやったって世間は見る。
それって、怖くないか?
世間にとって、都合のいい生き方をそれから強要される、そんなのって辛くないか?ちょっと読んだだけで、少し苦しくなって、読んでいた本を閉じ、奥の森に分け入って、竹刀を振った。
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。
そういう気持ちを赤裸々に話す気持ちなんて、分からなかった。
この子も、著者も、彰も、いつか誰かの思惑通りではなく、自分の思うままに生きるべきで、それは誰でもなく、過去の為でもなくそうすべきで。
俺は、何か書く事が出来るのかな。
こうやって力をつけて、人を傷つける術を学んで。そして昔教えてくれた先生や、両親は言う。いつか誰かを守るために、今こうやって強くなるんだと。
今現時点で何も言葉をかけられず、後ろめたさばかり感じている俺が、いつか彼等の手を、取れるのか。
真っ赤に熱を帯びた左手をゆっくり開いて、凄く、ボロボロで、硬い手だなと思う。
竹刀を振り込む度、木々に木刀を叩き込む度、何度だって考えた。
何かを書きたくて仕方がなかった。
だけど俺には文章にする程の思いも経験もない。甘い気持ちなんて知らない。だから書けるとしたら今はこれしかない。強くなること、抗うこと、そんな俺が、誰かの手を、掴めるのだろうか。
冷たい風が、一気に吹き抜けた。葉を揺らし、高い声で歌った。
立ち尽くす身体の表面と内側が、まるで別物だと、知った。