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"幸福"をためらうクソメンタリティをぶっ飛ばす

これは大人になってからの話で、20代後半になるまではその気持ちにならなかった。
どうやら大人になるということは、努めて幸せであらなければならないということだ。それまではそうでなくとも誰にも何も言われなかった。
社会人になって、自分の下に人が付くようになってから、自分の見られ方、生き方、あり方について考えるようになったのはここ最近の話で、悪い事ではない。

大人が夢を持ったり、幸せを語れない国はクソだ。
下を向いた大人ばかりが蔓延る国で、ガキどもは一体何の希望を持つのか?

そのことに対して、真剣に向き合い始めたのがボルダリングをしていた時期。もちろん仕事でもなんでも構わないが、その時は、大人が何にも挑戦しないということが、どうしても恥ずかしく思えてならなかった。
精神性が未完成な子供たち、青少年たちと過ごしていた環境だったからかもしれない。今となってはそのおかげでリアルな自分はネガティブな感情から距離を置けていた。

だが、20代前半までは、そうではなかった。
どこからそのネガティブさが作られるかと煎じ詰めれば、学生期の怠惰だったり、同調圧力だったりするのだろう。くだらねえ、面倒くせえ、リア充爆発しろ、そんな話。もっと言えば、目立つの面倒くさいから、手を挙げないとか、そんなことも含まれるかもしれない。
残念ながら未だにあらゆるところでそれは蔓延っている。きっとそれは居心地は良いのかもしれないから、この国にいる限り一度も直面しないなんてことはもうないのだろうと思う。
それに、ネガティブだけではないし。自分の本当に大事な価値観や課題に注力する為にいらない事象から距離を取るのはただの取捨選択だから、そうおかしい話ではない。

1月から自分の生活は大きく変わった。
心から大事に想える恋人を手に入れ、ごく普通に幸せに過ごしている。自分一人では行かなかったような場所に沢山行ったし、自分一人では目を向けすらしなかった光景を見て、自分一人では到底感じられないほどの体験をした。
自慢してやる。自分の恋人ははっきり言ってすごくかわいい。愛らしいし、大人だし、自分のことも二人のこともよく考えてくれる。自分にはもったいないぐらい素敵な人だ。自慢しようと思えばキリがない。

はっきり言う、今の自分は彼女に注力している。だから不幸であるポーズはとれないし、とらない。

これまで不幸なポーズを取っていたかといえば、そう見られるかもしれないが、少なくとも何一つ変わってはいないことは、そこに立ち向かうとか戦うとか、そういった文言をぶち込んで過剰に昂っていたからに他ならない。

ここまで一気に人生観が変わったとしても、残念ながら不穏な声は自分に影を落としてくる。妬まれることもきっとある。顔をしかめることもきっとある。先人の教えとして、これから訪れる現実に対して忠告されることもある。

けれども今はそれを掻き消していたい。
現代における恋愛沙汰から距離を置こうと今も努めて思っている。

たとえそうであるとしても、その人のことを真剣に思うなら、不満や愚痴は本人以外には吐き出さない。
たとえ家庭や、恋愛関係で大変なことがあるにしても、それを話のネタにはしない。
付き合う前からそう思っている。無論今もだ。そして彼女のいい所しか見ていないし、そうでないところは抱き留めて癒してやりたいと真剣に思う。仕組みやらなにやらは、真剣に調べて、考えていきたいと思う。

現実は無論、取捨選択も同調もする、手を抜くところは手を抜く。そうやってしたたかに生きる。
だけどそれは、もうぬるま湯に浸かるその為ではないんだ。

何も変わっちゃいない。

挑戦する事にも、立ち向かう事にも、そして幸せであり続けることにも、一点の曇りすら見せてやらない。

ぬるま湯に浸かる大人にも、ガキどもに蔓延るネガティブに対しても言う。

なめんじゃねぇぞ!!くだらねぇ愚痴やら腐った思想なんざ、ぶっ飛ばしてやる。全部俺にはいらねえんだよ。

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薄情屋遊冶郎
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