炎上や非難について思うこと
最近、企業アカウントなどが非難を受けたり炎上する頻度が特に高まってるように思います。ほとんど連日のように何かしら、炎上案件があるようです。
ところが、最近「~で非難殺到」という文字が飛び込んできて、どんな非難が殺到しているのか見てみると、確かに批判的な声は集まっているものの、それは辛辣ではあっても、個人の意見の集まりであり、何かそれで訴訟事になっているとか、大きなメディアが動いているわけでもない、ということが良くあります。
そう考えると、むしろ非難に対して敏感になりすぎているのではないか?という疑問が出てきます。少し批判的なコメントが寄せられると「非難が集中している。炎上だ」と、騒ぎになり、非難している人たちへの非難が始まってしまう。それで火種がますます大きくなる。そういうことが多くなっている気がします。
僕はそれをもう少し控えませんか?と思います。
考えてみてください。日本だけで1億3千万人いて、twitterのアクティブユーザの数は4500万人もいるわけです。それだけ膨大な数の人が、いつでもあなたの書き込みを見ることができるわけです。世の中には実に様々な人がいます。極端に見える価値観の方だっているわけです。どんな内容であったとしても、誰かにとっては不快であり、非難を受ける可能性は常にあるわけです。
同じ事を書いたとしても、今まで大丈夫だったのに、ある日突然、大炎上ということもあります。きっと、それまでは過敏な方の目に触れなかったのでしょうね。ひとたび過敏な人の一人に目に留まると、それが連鎖的に似た価値観の人に入る形で拡散されていき、炎上に至る。ここでわかることは、たとえ炎上したとしても、大多数の人にとっては全く問題ない内容であることが多い事です。(すべてがそうというわけではもちろんありません)
極端に言えば、「今日いい天気ですね」と書き込んだとしても、農業か何かで降雨を望んでいた人にとっては、不快であるかもしれないのです。「晴れが誰にとってもいいとは限らないんですよ」といわれるかもしれないのです。
そんな事を言ってくる人は狭量だ、と思うかもしれませんね。私も正直言えばそう思います。でもその人たちが、不快に感じる感覚はその人たちのものであって、そこには何らかそれなりの理由があります。そして、不快だ、という意思を示し、書き込む自由もあるわけです。だって不快なんですから。それは誰にも止めることができません。それが多様性を認める社会の裏返しなのです。そして彼らに非難をし返したしたところで、相手との不毛な応酬が始まるだけです。騒ぎは大きくなり、たいてい、炎上した渦中の人は、もうこういう書き込みはやめよう、と躊躇するようになります。企業アカウントなら、書き込みの自主規制がますます厳しくなり、書き込める内容はますます限られていくでしょう。
この繰り返しで最終的にどうなるかは言うまでもないと思います。「表現の自由」が、ますます形骸化していき、目に見えない規制と制約にがんじらめになるだけです。目に見える明文化された規制のほうがはるかにましです。
非難をされたとき、もちろん自分に非があれば、それはしっかり謝ることが必要です。けれど、そうでなく、明らかに非難されるいわれのないと自信があるのなら、動じないようにしましょう。けんか腰で反論する必要はありません。けれどむやみに謝るのも同じくらい良くない。もし、どうしても反論したいことがあれば、論理的に丁寧に自分の立場と考えを説明すればよいのです。それでもあなたの反論に攻撃してくるかもしれません。でも、そうしたら無視すればいいのだと思います。極端な意見が書き込まれても、その他多くの人は、それがおかしい事をちゃんとわかってくれています。個人の評価も、社会的な評価も守られます。そして、周りの人も、誰かを非難している人に対して、やたら攻撃をしないこと。無視するか、紳士的に説明すること。
多様性を認め、誰もが自由に発信できるインターネット社会では誰もが非難する権利もあること。但し非難攻めにあっているように感じても、実際はごく一握りの少数である可能性も十分あること。それを踏まえて一人一人が冷静に対応していき、おおらかに受け止めるのが、最も良い処方箋じゃないかと改めて思います。