LCL8・27「プロジェクト中間発表」のメモ・リフレクション
本日一番刺さったもの、衝撃のあったものを教えてください。
https://twitter.com/marikakonosu/status/1694104409729556577?s=20
鴻巣麻里香さんの一連のポストをめぐる対話が面白かったです。
経験主義的な学習においては、どうしても何をやるか、に意識が向くけれども、いつも何のためにやるのかを確認するといい、そして、ゼミ生の活動が同時にソーシャルグッドネスに適うものであるとよいというさとさんのアドバイスがありました。その流れで、活動のよさをめぐって、かかわる人を対象化しない、消費してしまわないという課題が指摘されて、鴻巣さんのポストが紹介されました。
ここで鴻巣さんが仰っているのは、僕の言葉で言えば、知りたいというナイーブな動機で支援の現場に「観察」に来る中高生が「観察という行為自体が対象にどのような効果をもたらすか」という、観察の、パフォーマティブな水準の意味を反省していないことが問題であって、フィールドワーク・エシックスとでも呼ぶべき基本的な配慮が必要だ、ということです。
最近、似た、無自覚な「足を踏む」ふるまいに、医学生が歌舞伎町で客引きの女性にウェットシートを配る「支援」の記事がありました。
https://www.bengo4.com/c_18/n_16417/
よい支援とよくない支援を分けるものなんだろう、と思うとき、他者を、施されるべき相手として切断しないこと、がまず必要だろうと思いました。
(昨日、JRの車内で「社会的弱者」の当事者性とデモクラシーについて考えるきっかけとなる出来事があったので、今度書いてみます。)
本日持ち帰るあなたの学びについて教えてください。
プロジェクトチューニングにおけるアドバイスです。僕は、自分が何か創作活動をするときに、どうやったらそれがアートとして認められるかどうか、正統性を持つか、という疑問を持っていましたが、「どちらかというとそれは、自己表現をすることに対する恐怖やためらいに基づくものであって、アートとして承認されるかどうかは二次的な問いなのではないか」という指摘が面白かったです。自分(たち)を掘ることによって何をするか、という外部に向かう行為が決まってくるのではないか、という逆説も理屈はよくわからないのですが、直観的にはその通りだ、と腑に落ちて、強張りが解ける感じがしました。
現在自分が格闘する問いについて教えて下さい。
自分がやりたいこと、自分が特に(先に)やるべきであるようなソーシャルグッドな活動はなんであるか、ということです。それは、教育ももちろんそうなのですが、むしろプライベートにおいて直面している育児をめぐる出来事から学んだことを接続すべきだと思いました。
LCL7期コミュニティが良くなるために、どんなアクションをしてみたいですか?どのようなサポートが欲しいですか?
もっと他の人を知らないといけないと思いました。みなさんご多忙なことはよくわかるのですが。あとネットワーキングというか、関係の掘り起こしというか、いろんなハッシュタグでくくりながらコミュニティメンバーのいろんな側面に光を当てて、繋いでいくことができたら豊かだと感じます。今年度、ではなく、長い目で見て、一緒にやりたいです。
以下、メモ。
大きいテーマを置いてみること⇔手を動かす実践
WHYとWHAT
抽象と具体
行ったり来たりすること
全体の俯瞰ではなく具体的構成の検証
プロフェッショナルではなくアマチュアリズム
肉切り包丁ではなくオペ道具一式
未来社会の原型としての学級集団
蟹は己の甲羅に合わせて穴を掘る、こと
自分ごととの重なりが、相手を消費させない関係への移行を促す
参与、私のプロジェクト自体が同時に社会を良くするといい
発表評価ありきだとプレイヤーに対象を消費させるふるまいを取らせる
偶然余白の入り込む隙間を設けること、ねらうところを企まないこと
プロジェクトは前方への投げかけであるから結果はわからない賭けである
見通しがあることとないこと
ものさしの複数性、ぐちゃぐちゃしたものを拾うこと
適応的なエリートにも所与の評価軸を乗り越える必要、ミッションがある
デモクラシーとは同じ釜の飯を食うこと
自分がなぜ対象に惹かれるのかを分析すると何をするかが見えてくるかもしれない
スプロールとネットワーク・トランスポーテーション
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