自由にお買い物できる感動を
リアル店舗はとりあえずは、自粛生活を終えて再開の兆しが見えてきた。
しかしお店を準備する側も気持ちは様々だ。
初期の段階ではここまでの感染拡大を見通せなかった僕たちは、解禁後にいままでのうっ憤を晴らすように、買い物客は一気に回復するのでは?との見方もあった。しかし長引く自粛生活や海外の状況からも恐れながらし消費は緩やかに戻る、いや消費そのものの価値感が変わる可能性を予想しながら営業を再開するという状況だ。そして、このウィルスのは、人を集めることができないという小売りにはとても頭の痛い特性がある。
店のありかた、人と人との関係性、確実に変化していく。
一方では、かつてないSTAY HOMEの期間を終えて、確実に生活者の価値観は変化している。自粛期間中のインターネットでのお買い物は、おいしいものや生活必需品、消耗品が中心で、それ以外のモノはあまり購入されていないと感じる。そのモノ事自体への価値が薄まってしまったのだろうか?
ニュースで断捨離をして廃棄場で渋滞が起こっているシーンを見かけた。つまり、人々は不要不急なもの以外の購入にに対して制限を受けたことで、そのモノの不必要性をを体感的に感じてしまったのだと考えている。
いらないものを整理して、生きていくうえで必要なモノだけを購入し、いままでのライフスタイルを一度リセットする機会を得たのだ。
これから消費はどこへ向かうのか?不要不急なモノとは何なのか?
僕は生活用品と長く向き合ってきた経験からがある。
ある日、器を中心とした生活雑貨のオーナーと、コロナウィルスの状況について話をしていた。オーナーは「我々の商品は生活必需品ではなく嗜好品に近いから・・・」と悩んまれていた。生活必需品とはなんだろうか?
例えばお茶碗ひとつについて考えてみる。ご飯を盛ることができれば用足りるモノだ。確かに一人一個あれば生活には困らない。
お気に入りのお茶碗が一個あれば十分でとても合理的だ。
例えば、こんな知恵をもっていたらどうでしょう。お茶碗の選び方だ。
お茶碗を選ぶときに、おもしろい品定め方法を教えてもらったことがある。同じ絵柄のいくつかのお茶碗を裏向けてまじまじと眺めてみると、それぞれの表情が微妙に違うことがわかり、そのうちに自分の一番好きな表情がこれだと確信してくるのである。お茶碗からまるで「あなたに買ってほしい」とせがまれるように。
そこには合理的以外の何かが存在する。人間らしい感情のような何かが。
モノの価値とは何か?モノには物語がある。モノには伝統的な地域に生きる工芸がある。プロダクトとしての進化や時代に合わせた変化がある。歴史を振り返ると大量生産や価格競争に巻き込まれながらも、進化してきた文化的価値が確実に存在する。
価値があるモノを生活に取り入れたり身に着けたりすることは
人が生きていく上での必需品だと思う。
そして消費は文化の進化と変化を感じる手段だと思う。モノを消費することは、文化の育成そのものだと。
そんなことを考えながら、買い物を制限されてきたことに
お店が再開されていくことは、やはりうれしい。
自由にお買い物できることに、感動があると思う。
買い物は文化育成の手段だから。
僕は百貨店が好きだ。百貨店は世代によっては遠い存在かもしれない。
アンチの人もいる。
百貨店は育成されてきた文化のミルフィーユみたいなお店なのでそこには確実に価値が存在する。
だから百貨店が好きなのかもしれない。
アフターコロナに百貨店は変化する。
過去の時代に合わせてそうしてきたように。