がんばることに価値はなくなったのか?
今日は娘の晴れ舞台だ!
数年ぶりのバレエの発表会がもうすぐはじまる。
昨日は1日中、母娘で、クタクタになるまで、リハーサルをしていて僕が家に帰るといつも走ってくる娘もベッドから動かず『疲れすぎた‥』の一言。
よほどがんばってきたのだろう。祝花を娘に用意して開演前の席取りをするのがパパの役割。
ママは色々な当番を分業しているので、舞台袖から覗くらしい。家族にとっての一大イベントである。
娘は一年生で2回目の発表会、1回目は3歳の時に初めての舞台を経験し、緊張感からか前日に高熱を出してなんとか当日舞台に立ったのだけれども、ほとんど涙を流しながら舞台に立っていた。それでも最後まで演目をやりきり、親バカだがとても心に残る舞台だった。そんなこともあって、娘にとっては、今回はリベンジの舞台なのかもしれない。
意味がなくても目標をたてて頑張り抜くこと
発表会が開催されることになったのは、ほんの数ヶ月前。どれくらいの日数をレッスンに費やしたのかはあまり定かではないが、このコロナ渦の中、スクール側も大変だったと思う。
もちろん、小1の娘は弱音を吐くことはないが、『なぜ、自分はバレエを頑張っているのか?』『なぜ、やりたい遊びを我慢して、頑張らないといけないのか』なんて、もちろん考えてはいない。
ただ楽しいから頑張ってやり切るのだ。
大人になると、いろいろなことに意味を持ちたがる。
『この仕事に何の意味があるのだろうか?』
『今日は価値ある1日を過ごせただろうか?』
意味を考えることは悪いことだとは思わない。
生きる意味を考えるから、宗教があり、哲学があり脳科学的な分析もある。
最近は【頑張りすぎない心の持たせ方】と、言うような子育てが話題だ。何事もナチュラルが良いとの考え方のようだ。頑張ることはストレスを与えてしまうらしい。
例えば、こんな傾向が社会の標準的な価値感になりつつある。
今の会社が嫌ならやめてしまえばいい。
嫌なら転職すればいい。
頑張る必要はない。
会社の同僚や、久々に会った友人や、家族にさえ
『がんばってね👍』というのは、挨拶がわりでもあると思うのだが、今の価値感からすると、『無理しないでね』というふうになるのだろうか?
まるで、けが人や病人にかけるような言葉だなと、思ってしまう。
目標は、自分だけでは見えないかもしれない。人が作ってくれた目標かもしれない。それでも目標のありゴールのある日常は生き甲斐があるはずだが‥
娘にはそんな生き甲斐のある人生を経験してほしい。
強いものがいるから弱いものを守れる
娘はウィルスで騒がしい最近の社会の影響で、将来は『科学者になってウィルスをやったつける』らしい
強いものが弱いものを守れるのだと思う。
がんばる人は、そんな強いものになれるんではないだろうか。
娘の晴れ舞台、今日はしっかり応援しようと思います。そして『がんばったね!よかったよ!』と声をかけてあげたい。
おそらく、ケロっとしているとは思うが‥w