自#684「日本の鬼は、ユーモラスで、ちょっと間抜けで、親しみが持てます。外国の吸血鬼とかゾンビのような怖さは、ありません。まあ、これが日本の割とゆるい文化だなと、宗達の風神雷神図を見ると、納得してしまいます」

  「たかやん自由ノート684」(自己免疫力30)

今年の4月(つまりあと1ヶ月後くらい)に入学する新1年生には、一人一台ずつ、パソコンのタブレットが貸与されます。私は、来年度、何を教えるのか、知らされてません。雇い止めには、ならないと思いますが、どこの学校で教えるのかも、まだ未定です。八王子のヤンキーな中学校に行って、取り敢えず、全教科教えて下さいとかと、突然、通告されても、正直、対処のしようがありません。徒手空拳というのか、お先真っ暗というのか、この歳になって、そんな大変な苦労をするというのも、でも、何か楽しそうと、思ってしまう自分がいます。
 今どきの中坊ヤンキーが、どういうものなのか、想像もつきませんが、とにかく、ヤンキーな中坊たちのケアに追われて、パソコンのタブレットの習熟、利用の方は、疎かになってしまいます。まあ、そっちの方が、私らしいし、パソコンタブレットの方は、そういうガゼットを、いとも簡単に使いこなしてしまう若い人に、ヘコヘコして、教わりながら、最低限のことを、まちまとこなします。
 何日か前に、自宅のパソコンで、「琳派の美」というDVDを見ました。映像は、まあきれいです。音響の方は、残念な音ですが、私が知る限り、きちんとした音響機材を準備して、パソコンを使って授業をされている先生は、いません。簡易のミニスピーカーを持ち込んでいる方はいますが、聞こえにくくならない、取り敢えず、音が鳴っているという程度のもので、別段、音にはまったくこだわってない、おもちゃのようなスピーカーです。私が担当する社会科の授業のソフトで、音にこだわっている教材は、多分、ないと思います。取り敢えず、映像情報を見せて、イメージを抱かせ、できれば、知識も記憶してもらうといった風なことを、目指せばいいんだろうと考えています。
 琳派の美でしたら、まず、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」を見せます。これは、京都の建仁寺にある2曲1双の屏風絵です。風神が右端、雷神が、左端に描かれていて、まん中の空間が、ぽっかりと2曲分、空いています。こんな風な全体の半分、それも中央を、ほぼ完全に空白にしてある西洋の絵は、見たことがありません。
 西洋の絵は、「間」というものを、基本、考慮しません(ないわけでもありませんが、こういう大胆な間の取り方は絶対にしません)。大きな間があっても、見えてないだけで、実はそこには、「有」が充実しているってことは、日本ではあり得ません。間は、すなわち無です。
 おしゃか様は、この世は無だと仰ったんです。東洋には、無の思想は、そこかしこに充満しています。当然、絵画でも、建築でも、文学でも、俳句でも、落語でも、音楽でも、無を巧みに表現しなければいけません。風神雷神図の絵のキモは、まん中の大胆な間、つまり無を、あっけらかんと、かつ堂々と見せているところにあります。宗達のような、自由奔放、縦横無尽の天才にしか、こんなことはできません。
 この後、百年後に、光琳がこの絵を模写します。その百年に、抱一がコピーしました。この絵は、共通テストに出題されてもおかしくないくらい、超有名な絵です(日本の著名な絵の上から5番目までには入ります)。この大胆な間は、日本人なら、誰もがshareできる財産になりました。
 間があるのが、当たり前。宗達のこの絵を、しょっちゅう見ているので、何時間でも、気楽に、クライアントの沈黙に対処できるカウンセラーさんが、間違いなくどこかにいて、いい仕事をされている筈だと、勝手に思ってしまいます。間が怖くて、無理やり話題をひねり出して、のべつまくなしに、喋っている人が、いたりします(ビジネスの世界では多いと推定できます)。お互いに信頼しあっていれば、間は少しも怖くないし、気まずくもないです。
 禅寺の修行では、基本、喋りません。お経は読みますが、私語は一切しません。私は、5、6日間くらい、私語を一切しない坐禅のトレーニング(接心と言います)に、何回か参加したことがありますが、喋らなくて、言葉のない世界は、想像している以上に、心地の良いものです。chanceがあれば、百日間の沈黙修業とかもやってみたかったです。お経は、声を出して読みますから、声が出なくなるってことはありません。歳を取って、そんなトレーニングをやると、言葉を忘れてしまうかもしれません。が、まあ、それもまた、一楽一興です。どうでもいい言葉を捨て去り、大切な言葉だけが残って、その大切なことばのみで、残りの人生は、充分に、やって行けそうな気もします。
 ちなみに風神雷神が、乗っかっている雲は、たらしこみという技術で描かれています。たらしこみは、下地の絵の具を塗って、それがまだ乾いてない内に、上に別の絵の具を落とします。そうすると、下の乾いてない絵の具と、上の絵の具とがにじみ合って、不規則な模様ができあがります。どういう模様になるのかは、描いている画家にも解りません。その日の天候、温度、湿度などによって、模様の濃さ、薄さ、形などは違って来ます。焼き物の耀変天目などの場合は、焼き上がって、窯から取り出してみないと、どういう模様になっているのか解りません。まあ、それと同じです。アートは、人間の力だけではなく大きな摂理のサポートがあってこそ、最終、仕上がるものです。人間の力だけで、できあがるものではないと、東洋のアーティストは、ごく自然に考えることができます。
 日本史の資料集には、「風神雷神図」は、宗達の最高傑作だと書いてあります。借りて来た「琳派の美」のDVDも、そういう風に説明していました。いったい誰が、どんな権威のあるオーソリティが、いつ、そんなことを決めたのかと、言いたくなります。私の個人的な考えでは、宗達の最高傑作は、光悦が和歌をちらし、宗達が金銀泥で植物などを描いた「四季草花図」です。
「風神雷神図屏風」は、国宝で、「四季草花図」は、重文(重要文化財)です。国宝は、全部で千個くらいですが、重文は、12000個くらいあります。重文は、国宝に較べると、有象無象って感じがします。正直、これも納得できません。国宝よりも、すごい重文は、沢山あります。乾山ですと、私は「花籠図」が、一番の傑作だと思っていますが、国宝ではなく重文です。まあ、法隆寺の金堂の壁画が焼けて、その後、慌てて、どろ縄式に、国宝や重文などを、指定して、にわかに保護に乗り出したので、それぞれの分野のエキスパートたちが、自分の主観にもとづいて、きっとsaku sakuっと指定して行ったんです。国宝とか重文とかに、とらわれる必要は別にないと考えています。
 授業で、風神雷神図を見せて、これが宗達の最高傑作ですと教えてしまったら、その知識が生徒の脳裏に刷り込まれます。あと、タブレットで、ぱっと見て、知識として理解し、記憶したら、まあ、それっきりって感じもします。
 ここは、やっぱりその昔のアンノン族のようなノリで、失恋して、突然、京都に行きたくなって、東山を散策中に、何となく建仁寺に入って、まったく何の予備知識もなしに、いきなり突然、風神雷神図に出会って、鳥肌が立つといった経験をした方が、いいような気がします。本当に大切なことは、やっぱり授業で教えたりしては、いけないという基本に立てば、タブレット端末を使って、安直に大傑作について語ったりすることは、NGかもと思ったりもします。まあ、どうするのかは、その時になって、そう悩みもせず、sakuっと決めます。

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