自#640「成人式にレンタルする着物の柄が、あまりにもごちゃごちゃし過ぎて、繁雑で残念です。余白があって、simple、これが、日本の美の基本です」

      「たかやん自由ノート640」(日本画と西洋画)

 教科書会社から出ている日本史の資料集(帝国書院)のページを捲って、明治時代の絵画を見てみました。そう多くの絵画が紹介されているわけではありません。人口に膾炙した著名な作品ばかりです。日本画が6点(橋本雅邦の「龍虎図」、狩野芳崖の「悲母観音」、横山大観の「無我」、下村観山の「木の間の秋」、竹内栖鳳の「アレ夕立に」、菱田春草の「黒き猫」)、西洋画が7点(高橋由一の「鮭」、浅井忠の「収穫」、黒田清輝の「湖畔」、和田英作の「渡頭の夕暮」、藤島武二の「天平の面影」、和田三造の「南風」、青木繁の「海の幸」)です。6:7の割合です。第一学習社の資料集には、西洋画の方に赤松麟作の「夜汽車」が追加されていて、浜島書店のそれは、黒田清輝のフランスのサロンに出品した「読書」が余分に掲載されていて、8点ずつです。つまりこの二つの資料集は6:8の比率です。 掲載されている作品は、まるでカルテルでも結んでいるかのように、どの会社もほとんど同じ作品です。これは明治時代のアートに限らず、どの時代のアートも基本同じです。日本史の学習指導要領を見たことはありませんが、扱う作家名や作品名までは指定してないと思います。教科書会社が、長年、編纂して来た歴史の中で、自ずと共通のマニュアル的なものが、出来上がっているんだろうと想像しています。
 ところで、美人画でしたら、竹内栖鳳ではなく、上村松園or鏑木清方の方を、私は推したいって気がしますが、ヨーロッパに出むいて、西洋画を学んだ、よりグローバルな竹内栖鳳の方が、京都or東京からほとんど外に出たことがないアーティストよりも、教科書会社的には、望ましいのかもしれません。上村松園は、晩年、中国に出かけていますが、鏑木清方は、94歳まで長生きして長寿だったのに、内地から一度も外に出たことがありません。上村松園は純Kyoto、鏑木清方は純Tokyoの画家だと言えます。
 6:7あるいは6:8と、比率が違うのは、西洋画の方が、勢いがあるからです。日本史の資料集に掲載されている小さな絵を見ても、それは分かります。勢いやpower、エネルギーを外側の形として表すのであれば、日本画より西洋画の方が、向いています。日本画は、「動中に静あり、静中に動あり」みたいな表現スタイルが基本ですが、西洋画は「動中にさらに超ド級の動あり」といった、こちらの鑑賞能力をはるかに超えていると感じられる作品が、沢山あります。たとえば、ミケランジェロの「最後の審判」に、きちんと対峙して、作品を100パーセント、余すところなく受け止められる人は、日本人には、多分、いないんじゃないかと私は思っています。この絵は、小さな画集で見るだけでも、苦労します。ましてや、システナ礼拝堂の巨大な作品(タテ13.7メートル、ヨコ12.2メートルです)をやって感じです。
 江戸時代に長崎経由で、西洋画の技法は伝わって来て、西洋画みたいなものを、たとえば、平賀源内や亜欧堂田善、司馬江漢などは描きますが、バリバリの西洋画だとは、とても言えません。バリバリの西洋画は、黒田清輝がパリで12、3年修業をして帰国し、ようやく日本に入って来たんです。西洋画というのは、元々、日本には存在してませんでした。それを、新たに立ちあげて、描き始めるわけですから、勢いがあるのは当然です。
 日本画は、過去に偉大な時期が、いくつもありました。偉大なビートルズが、ロックというものを完成してしまって、あとの時代の人は、どうしても、(西洋美術史的に言うと)マニエリズム的になってしまうってとこがあります。もう、どんなに頑張っても、宗達や光琳を超えることはできません。それは、アートに実際に携わっている人は、みんな承知している筈です。南画で言えば、玉堂(私は高校時代から浦上玉堂推しです)大雅、鉄斎を超える作品は、もう出現しません。雪舟の水墨画は、未来永劫、誰にも超えられない、完膚無きまでのperfectな完成品です。
 ほとんどゼロからスタートする西洋画と、日本画とでは、最初から勝負は見えているような気がします。が、西洋画を見るなら、directにヨーロッパのauthenticな西洋画を見た方が、はるかに解るし、面白いってとこがあります。それは、Jポップと洋楽との関係と同じです。私は、Jポップは聞きません。directに洋楽を聞きます。少しは、Jポップの曲も知っていますが、それは生徒がバンドでコピーするのを聞いたからです。
 そうは言っても、明治時代の日本画は頑張っています。それは、かなりの部分、フェノロサのお陰だろうと私は推定しています。廃仏毀釈の嵐が吹き荒れて、国宝級の仏像でさえ、そこらの野原に放置されているといった、異常な状況の日本にやって来て、日本の美術は、西洋の美術に、少しも劣ってないと、客観的に冷静に、教え諭します。
 絵画に関しては、西洋画より日本画の方を、フェノロサは、より高く評価しています。上野の博物館で講演を行って、観点別にコメントを述べています。
 観点その1。写実性は西洋画の写実性は高い。日本画は低い。が、実物を写実的に描写することが、美術の本旨ではない。
 観点その2。陰影は、西洋画は陰影あり。日本画はなし。陰影は濃淡の表現のひとつであり、陰影がなくても、他の方法で濃淡は表現できる
 観点その3。鉤勒(輪郭線)は、西洋画はなし。日本画はあり。日本独自の鉤勒は、近年、欧米の画家に使用されようとしている(これは、浮世絵が印象派に与えた影響のことを言っています)。
 観点その4。色彩は、西洋画は色彩が多く濃厚。日本画は色数が少なく淡泊。色彩が多くて濃厚だと調和しがたく、色彩にとらわれてしまう。
 観点その5。粗密性は西洋画は繁雑。日本画は簡潔。余白なく繁雑に事物が描かれていると、焦点をひとつに合わせることができない。
 フェノロサは、すべての観点において、「日本ヲ以テ勝テリ」と、日本画を高く評価し、衰退し忘れ去られていた狩野派の狩野芳崖や橋本雅邦を見出し、東京大学で教えた、教え子の岡倉天心と協力して、東京美術学校を開設します。東京美術学校は東京芸大の前身です。もともと、日本画のみ教える学校だったんです。
 手元にある週刊誌のグラビアに、18歳~20歳くらいのアイドルが、晴れ着姿で、並んでいる写真が掲載されています。全員(9名)、着物の柄が、正直、どれもコテコテです。すべて花柄模様で、牡丹や椿の大輪だったり、菊や梅の中輪、小輪だったりという違いはありますが、帯から下は、ほとんど隙間なく花模様が広がっています。これは、フェノロサの観点4と観点5に明らかに反しています。着物の柄が、どうであるべきかという基本のセオリーは、上村松園や鏑木清方の絵を見れば、即座に判ります。
 長女が成人式を迎える時、レンタルする着物は、どれがいいだろうと、妻が私にカタログを見せてくれました。正直、どれもNGでした。が、まあそうも言えないので、緑っぽい多少、地味な色合いの着物を勧めました。日本美術の歴史をきちんと学んだ、優秀な方が、着物の柄のデザインとかに、取り組んでもらいたいって感じです。

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