自#983「ヒップホップ誕生、五十周年だったらしいです。ヒップホップのお陰で、日本人のリズム感は、間違いなく良くなりました。ヒップホップは、音質にもこだわっていましたが、音質へのこだわりは、ITの発展と共に、だんだん薄れて来てしまっていると感じています」

          「たかやん自由ノート983」

 朝日新聞のポップスみおつくしに、大和田俊之さんが、アメリカでヒップホップの五十周年イベントが、続いているという記事を書いていた。ヒップホップは、1973年の8月11日、ニューヨークのブロンクスで誕生したらしい。
 中1、2の頃、音楽がこの世の中で一番、大切なものだと確信していた。中1、2の頃は、ヤンキーだったが、週末にライブハウスに入り浸っている音楽系ヤンキーだった。ライブハウスのステージに立っていたのは、地元のバンドだったり、横浜あたりから流れて来たどさ廻りのバンドだったりしたが、ストーンズやアニマルズやキンクスのコピーを演奏していて、まさにリアルタイムのUKロックだった。ロンドン、マンチェスター、リバプールと、四国の高知との間のタイムラグは、まったくなかった。何故、こういう現象が起こったのか解らないが、13、4歳の頃、リアルタイムの世界の音楽を聞いていた。
 ローリングストーンズのブライアンジョーンズが死んで、ジミヘン、ジミモリソン、ジャニスが次々に逝去して、ビートルズが解散した。音楽がすべてだと信じていた時代が、いつの間にか終わって、どうも良く解らない(音楽的には)ぬるい時代が、始まったという気がしていた。それは、四国の高知だけでなく、ニューヨークのブロンクスでも、多分、同じ。だから、新たな音楽を始めたということだと想像できる。
 私は、1973年頃は、受験生で、モダンジャズを聞いていた。今でも、モダンジャズという言葉は、普通に使うが、実際には、もう爪の先ほどもモダンじゃない。30'sのスウィングジャズ以降の40's、50'sのビバップ、その後のハードバップを、モダンジャズと言う。モダンジャズは、60'sにはもう衰退していた。60'sは、クールジャズやフリージャズ時代に突入し、70'sは、明らかにフュージョンだった。
 客観的に見て、ポップス音楽業界は、70's以降に、新時代に入ったと言える。音楽は多くの人にとって、one of themになった。それは、私もそう。今の私は、音楽をちゃちゃっと聞いて、絵を見て、本を読み、遊歩道を歩いて、散歩もする。
 エラフィッツジェラルドのライブ録音のCDを聞いた。クレジットを見ると、1955~1966のヴァーブ時代の録音。この頃の録音だと、ライブハウスの左右に二本のマイクを立てたステレオ録音か、一本だけのモノラル録音か、どちらか。自宅で使っている安っぽいCDデッキは、一応、ステレオで、右の方からはホーンが聞こえ、左からは、ベース、ドラム、真ん中でVoが歌ってたりする。その後、録音技術は、とんでもなく高度になり、ミックスダウンの段階でも、様々なイフェクトがかけられるようになった。が、そういうハイレベルのミキシングより、マイク一本の素朴なモノラル録音の方が、simpleで、解り易くて、よりリアルだという気がする。
 UKロックに神が存在しているとは、思えない。ジョンレノンは、神になりたいみたいなことを、ジョークで言ってた。神が存在してないと確信しているから、そういう発言が自然に出た。ジョンレノンに限らない、ローリングストーンズの音楽にだって、神はいない。別段、何の問題もない。我々、極東の日本人は、キリスト教的な神がいなくても、別段、何ら困ることはない。
 西洋のクラシックは、まあそこそこ、ちゃんと知っているのは、後期ロマン派のブラームス、ドボルザーク、チャイコフスキーあたりまで。クラシックのどこを切り取っても、金太郎飴のように、神は存在している。マーラーに神が存在しているかどうかは、ちゃんと聞いたことがないので解らない。
 ルイアームストロングの曲は、キリスト教に裏打ちされている。私は、トムソーヤとハックルベリーフィンの冒険を読んで、アメリカ中西部の神の在り方を、私なりのスタンスで理解した。東海岸のWASPたちは、無論、キリスト教徒だが、あまりにもガチガチのピューリタンなので、そうは言っても、多神教的なノリの日本人には、軽々しくは入って行けないという感じはする。
 ジャズは、ビバップ、ハードバップが台頭して、神の存在は薄くなったんだろうと想像できる。神の存在が薄くなった様子を、アートで示してくれたら、アート好きの私には理解し易いが、残念ながら、アメリカには、今だにアートらしいアートは、存在してないという気がする。ルネサンスもバロックも、中世も古代ギリシア・ローマも存在しない新大陸で、ヨーロッパレベルのアートを求めることは、そもそも、ラクダが針の孔を通るより、難しいことだと理解できる。
 私は、中1の頃、R&Bを相当、聞き込んだ。UKロックには、神は存在してないが、R&Bには、神は存在している。R&Bがソウルになり、人間の愛だけで、手いっぱいになってしまうと、神への愛は、どこかに置き去りにしたままになった。
 オーティスレディングは、若くして死んだが、飛行機事故だったから、神に召された、運命だったと、案外と素直に受容できた。ブライアンジョーンズやジムモリソンたちの、ドラッグまみれの死とは、やはり文化が違う。
 フィッツジェラルドの歌にだって、神は存在する。彼女の十八番の曲は、「マックザナイフ」。「マックザナイフ」は、神を前提として書かれた曲。「マックザナイフ」は、ブレヒトの「三文オペラ」の中で歌われる。
 三文オペラにも、ジャズシンガーのフィッツジェラルドにも神は存在するが、同じ神だとは思えない。私は、神を半分信じて、半分信じてないが(こういう曖昧なあり方を一神教徒たちは許容できないとは思うが)、私が半分信じている神も、極東の地に根差した、いわば、アレンジされた神だと思う。三つの神が違っている。そもそも、私はクリスチャンじやないし、こんな中途半端な曖昧なことを書いても、認めてもらえないかもしれない。が、私は、中途半端な曖昧な状態においてしか、神を考えられない。
 生成AIが、今や、大流行。一世を風靡していると言ってもいいかもしれない。生成AIは、正しさを求めているわけではなく、大量のデーターを高速で統計処理し「確率の高い解」を求めるメカニズム。唯一の正しさを求めているわけではない。
 唯一の正解がないと寛容になれば、ヨーロッパの神、アメリカの神、極東の曖昧な神がいても、何ら問題はないと思う。これこそ、みつをさんのいう「みんな違って、みんないい」の真意じゃないかという気さえする。

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