見出し画像

教#061|桃源郷のような美しい景色を見て、辛かった時期は、無事、終わりを迎えた~マンガで分かる心療内科を読んで②(たかやんnote)

 私の人生で、一番、辛かった時期は、小1、2の頃です。が、それがうつだったのかどうかは、判別できません。死ぬことは考えましたが、強烈なまでの生き抜いて行こうとするエネルギーもありました。当時の写真もなければ、手がかりになる字とか文章とか絵と云った具体的な作品もありませんし、当時のことを多少なりとも知っていた母も、逝去しました。人生で一番、辛かった時代が、何だったのか(その意義とか意味とか)は解りません。ただ、この時期よりも辛い時代は、その後は、なかったと言い切れます。過去の一番辛い時代が、自分を守る安全装置のような役割を果たして来たとは、一応、言えるのかもしれません。

 大人になって、一番、辛かったのは、教師になって4年目の冬です。33歳でした。うつに一番近かった時期だと思います。当時、私は、高校3年生の担任でした。3学期に入って、1月22日の日曜日、私は、PTA主催の七福神巡りのイベントに参加していました。神社を2つくらい参拝した後、休憩所で、同行していた管理職に「先生のクラスのT子さんが、火事で亡くなったらしい。現場に行って、確認して来て欲しい」と、言われました。あまりにも突然のことなので、驚きました。自分の担任クラスの生徒が、火事に遭って死ぬと云ったことは、まったく想定できませでした。事実を確認するためにも、現場に出向く必要があると判断しました。

 七福神ツァーの方は中断して、荒川区にあるT子の自宅に向かいました。T子は高1の時も私の担任クラスで、なおかつ私の部活の生徒でした。以前に家庭訪問をしたことがあったので、自宅の場所は分かっていました。近くまで行くと、火事の匂いがしました。T子の自宅は二階建てだったんですが、二階の部分は、完全に焼け落ちています。その火事現場を、虚ろな目で、呆然と立って、見ているおじさんがいました。顔がそっくりなので、T子の父親だと、即座に理解しました。父親に声をかけることは、できませんでした。近くにいたおばさんに、T子のお母さんは何処にいますかと聞くと、T子のお母さんが一時的に避難している家に案内してくれました。T子のお母さんとは面識があります。お母さんに「先生、娘はもう死んだので、わざわざ来てくれなくても、良かったのに」と、言われてしまいました。お母さんだって、取り乱して、動揺しているんです。

 この後、学校に行きました。自分のクラスに行って、教壇に腰をかけて、ぼーっとしながら過ごしていました。しばらく座っていたら、クラスの男の子が2人来ました。ラジオのニュースで、T子が火事で焼死したことを知ったのだそうです。二人も、私同様、教壇に腰をかけて黙って座っていましたが、突然、「掃除をします」と、宣言して、教室の掃除を始めました。私は手伝わず、彼らの動きを、ぼんやり見ていました。男の子の一人のFくんは、掃除のバイトをずっとしていた生徒です。プロの掃除の職人が仕上げたかのように、教室はきれいになりました。で、Fくんは、「花を飾りますか?」と、私に声をかけました。「そうだな。机の上に置く、ちょうどくらいの大きさの花束を買って来てくれ」と、私は、お金を渡してFくんに頼みました。Fくんたちが買って来てくれた花束をT子の机の上に置いて、我々は、下校しました。

 翌日、登校して、自分のクラスに行くと、花束は増えていました。机の足元にも花束が並んでいます。1月の下旬まで生徒は登校しました。T子の机の花は、古い花は捨てられ、新しい花が加わり、花瓶も持ち込んで、毎日、誰かがアレンジしていました。誰なのか解りませんが、多分、クラスの女の子の誰かです。

 T子は、高1で私の部活に入って来て、レベッカのDrを叩きたいと言ってました。中学時代は、吹奏楽部でパーカッションを叩いていて、高校では、バンドをやると決めていたそうです。その後、高2の秋だったか、T子が「本当は歌も歌いたい。でも、歌はDonがいるから」と、私に洩らしました。Donは、T子の学年の歌姫でした。「Donは上手いけど、DonはDon、お前はお前だ。やりたいことをやれよ。大人になったら、やりたくてもできない。高校生の今なら、すぐにでも始められる」とアドバイスしました。T子はガールズバンドのDrを叩きながら、男の子たちのバッキングで、歌を歌うようになりました。高3の文化祭では、レッドツェッペリンの2枚目の曲(ハートブレイカー、胸いっぱいに愛を)を歌っていました。

 自分の担任クラスの生徒を、全員、卒業させられず、卒コンもT子がいない状態で実施することになるので、担任も部活の顧問も、結局、ちゃんとした仕事ができなかったと、精神的には落ち込みました。こうなったのは、自分のせいではないとしても、そういう理屈で、自分を納得させることは、到底、できませんでした。T子と一緒にバンドを組んでいたギタリストのSくんは、「先生、卒コンをやり切るしかない」と、私に声をかけました。ライブをやり切る。T子の追悼と云う意味でも、やり切るしかないと理解していました。このうつに一番近い状態は、3ヶ月くらい続きましたが、何とか抜け出しました。「結局、時間がすべてを解決する」と云う真理を、改めて学んだように気がします。

 T子のお母さんは、法事の度に、私を呼んでくれました。源氏物語ですと、四十九日まで、7日目ごとに、法事があります。そんなに多くはないんですが、初七日、四十九日の法事に参加しました。「百日目の法要を兼ねて、身延山に登ります。先生も一緒に行きませんか」と、お母さんに声をかけてもらいました。朝、6時半くらいに荒川で貸し切りバスに乗って、身延山に向かいました。バスを降りてから、身延山のお寺まで、山道を登って行きます。T子は、立正佼成会の子弟でした。立正佼成会の青年部の幹部が「先生、お太鼓を叩きながら、声を出して登れば、足は軽くなります」と、教えてくれました。声を出すとは、何妙法蓮華経を唱えると云うことです。それで、言われた通り、太鼓を叩きながら、何妙法蓮華経を唱えて登ると、フットワークは、一気に軽くなりました。お太鼓のリズムと、法華経のコラボの威力を、まざまざと実感しました。お寺の近くまで登ると、近くに桃畑があって、桃の花が咲いていました。ゴッホが、「ここは日本だ」と強引に信じ込んで描いた、アルルの「桃畑」の絵を思い出しました。「人生は、芸術を模倣する」と、云うオスカーワイルドの有名な逆説も脳裏に浮かびました。桃源郷のような美しい景色を見て、ようやくうつに近かった時期は、無事、終わりを迎えたと感じました。

いいなと思ったら応援しよう!