自#448「映画は映画館で観たいんですが、コロナ禍で、出かけるのも億劫になりました。本があれば、それで済ませるみたいな安直な姿勢に、年を取ると、やっぱり、なってしまいます」

         「たかやん自由ノート448」

 ルーウォリスが書いた「ベンハー」を、近所の古本屋で買って読みました。チャルートン・ヘストン扮するベンハーが、四頭立て戦車を、競技場で疾駆させている写真が、表紙に使われています。戦車レースのsceneは、覚えています。この映画の一番の見せ場でした。イエスとの絡みの部分とかは、全然、記憶していません。そもそも、この映画の舞台はローマだと思っていましたが、小説を読むと、ローマは一度も登場しません。アンティオキアとエルサレムが、この物語の主要な舞台です。
 ベンハーの家の手すりの瓦が、前からひび割れていて、それが落下し、パレード中の総督の頭を直撃し、ベンハーは、総督暗殺の罪に問われて、奴隷身分になり、ガレー船を漕ぐことになります。偶然の事故で、人生が一変する、それは、リアルな人生でも、普通に起こります。私も、20代半ばに、車に乗っていて、人身事故を起こしました。車を止めて、ドアを開けて外に出て、頭から血を出しているおばあちゃんが、道路に倒れているのを見て、この瞬間、自分の人生は、ここで終わったと思ってしまいました。が、実際は、人生を一変させるような事故、事件が起こったら、新たな人生が、そこから始まります。その新たな人生を、逞しく生き抜けるか否かによって、その後の人生模様は、大きく違って来ます。
 ベンハーは、奴隷身分に落とされて、ガレー船の漕ぎ手になり、徹底的に自己の身体を鍛えます。漕手長に、左右、交互に漕がせてくれと申し出ます。「一方ばかりで漕いでいると、身体の均整が崩れ、嵐とか戦闘の際、突然、位置を変えなければいけない時に、充分にお役に立てなくなる」と云うのが申し出の理由です。
 大学に入学した頃、ボート部に入部することを、ほんの一時期、考えていました。私は、小6までは、海や山で遊んで、それなりに身体を鍛えていました。中学時代はヤンキーで、高校時代は、演劇・文学系で、本ばかり読んでいました。小学時代の体力の貯金を、だいたい使い果たしたと自覚していました。大学入学をきっかけに、身体を鍛えたいという気持ちはあったんですが、体育会ボート部では、さすがに敷居が高すぎるだろうと、諦めました。
 ベンハーは、司令官の命を救ったことで運が開けて、奴隷身分から解放され、司令官の養子になって、ローマ市民となり、戦車競走などに参加するようになります。戦車を走らせる四頭の馬を、二本の綱だけでコントロールすることが、どれだけ大変なことなのか、ちょっと想像もつきません。体幹を徹底的に鍛えないと、カーブで曲がった時に、戦車から振り落とされてしまいます。腕、肩、背中、腰、脚、足、すべての筋肉を、バランス良く、Maxまで使い切らないと、topでは、ゴールできません。走らせている馬の気持ち、心を理解し、いたわり励ますことも必要です。ベンハーは、馬主の族長が日頃使っているアラム語で、自分が走らせているアラビア馬を激励します。
 最後のホームストレッチ(ゴール前の直線コース)に入って、ベンハーは、自分の戦車の車軸を宿敵メッサラの車輪に食い込ませ、メッサラの戦車を粉砕します。その昔、メッサラに財産を全部奪われ、母や妹の消息も判らなくなってしまっています。やられたら、やり返す。ハムラビ法典以来の不文律が、成就した瞬間です。まあ、映画の観客は、この復讐劇を、肯定的に受け止め、納得し、カタルシスさえ得たんじゃないかと推測します(もっとも、映画の方は、この事故を偶然の事故のようにsophisticatedしてあるのかもしれません)。メッサラは、車から振り落とされて、後から来た戦車に轢かれ、手足が動かせない障害者になってしまいます。ベンハーは、ベンハーの復讐劇と、イエスの福音物語の二つがsetになったstoryです。復讐劇と、イエスの物語は、両立できません。イエスは、誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい、あなたの敵をゆるし、愛しなさいと教えた筈です。
 ソロモンの雅歌の情熱が湧き立つような、イラスという美女が登場します。ミルラ(没薬)が匂い立つような、コペルの花ぶさのごとく華麗な、我が口に甘いであろう林檎の果実のような、妖女です。男たちは、一度は、妖女に惹(ひ)かれるのかもしれません。悪女は、エジプトの神話を語ります。オシリスは人間(男)をつくります。水や岩、草や木、鳥や獣、虫やヘビまでいて、大地もこしらえ、これで人間(男)は幸せになる筈だと、つぶやきます。が、人間は、退屈しています。オシリスは、世界に色を与え、動きも加えます。が、人間(男)は、やはり退屈しています。さらに音を与えます。河はハープ奏者となり、海は、時に管弦楽を轟かせます。が、人間(男)は満足しません。オシリスのパートナーのイシスが、私が、人間を幸せにしますと言って、編み物の最後を編み終えて、それを人間の傍に落ちるように投げます。そのすばらしい編み物は、みるみる一人の女になりました。最初の女です。女は男に手を差し伸べ、男も女の手を取り、二人は幸せになりました。
 こういうlegendを何ごともないかのように、あっけらかんと語る妖女に、ベンハーは魅了されます。すぐ傍に、エステルという青い鳥がいるのに、それに気がつきません。イラスには、バルタザールという立派な父親がいます。が、立派な父親から妖女が生まれることだって、まあ普通にあります。立派すぎたりすると、リスクは、より増大します。イラスは「若い者のあやまちは許せるけど、老人の取り柄はせいぜい分別だけ。分別をなくした老人は、死ぬしかないわ」と、平然と言い放ちます。
 親孝行ではなかった私は、自分の子供が、自分に親孝行をしてくれるなどとは、1ミリも考えてません。そんな都合のいい話はあり得ません。ただ、年寄りには、やはり分別は、必要です。頑固で、かたくなで、ひがみっぽい老人には、絶対になりません。
 ベンハーの映画のディティールは、もう全然、覚えてません。いろいろと、てんこ盛りで、ドラマツルッギー的にも、無理なとこは、それなりにあって、なおかつコンプライアンス的にも、これどうよみたいなとこは、ある筈ですが、アカデミー賞の作品賞をはじめ、監督賞(ウィリアムワイラー)、主演男優賞、助演男優賞、その他、美術監督賞、撮影賞、衣装デザイン賞、サウンド賞、編集賞、特撮効果賞など、10部門で、アカデミー賞を獲得している名作です。まあ、やっぱり、当時のハリウッド的佳作だったわけです。制作されたのは1959年。映画がもっとも輝いていた時代の作品です。

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