自#613「11月中旬~下旬に、何回かきれいな夕焼けを見ました。これくらいのことで、充分、その日一日、いやその日から三日くらいは、happyな気持ちに浸れます

      「たかやん自由ノート613」(ゴシック式③)

 ゴシックの大聖堂の雰囲気を、多少なりとも理解してもらうために、授業で、ディズニーアニメの「ノートルダム」の中で、エスメラルダが歌う「God help the outcasts」を流しました。この曲は、エスメラルダが官憲に追われて、ノートルダム大聖堂の中に逃げ込み、礼拝堂で「神よ、どうか哀れな追放された者を、助けて下さい」と、祈りながら、歌う曲です。Aメロの最後に「Were you once an outcast too?」というフレーズが出て来ます。「神よ、あなたも、かつては、追放された者だったんじゃないですか?」と、エスメラルダは、神に問いかけているんです。イエスは追放され、見放された者として、十字架にかかります。エスメラルダの問いは、正鵠を得ていたと思われます。が、今、追放されて、よるべのない状態の彷徨(さまよ)っている子羊のエスメラルダを、神が救って下さるかどうかは、判りません。人間には、神の世界は不可知です。
 このnoteを読んでいるクリスチャンの方も、ほんの少しはいると思います。そのクリスチャンの方は、おそらくプロテスタントで、尚かつ、キリスト教の教義とかには、さして関心のない方だろうと想像しています。キリスト教の教義と、きっちり向き合っている方に、出会ったことは、これまでの人生で、2回しかありません。私自身、キリスト教の知識は、多少なりとも持ち合わせていますし、キリスト教という一神教が、嫌いだというわけでもありません。どっちかというと好きです。が、自分がキリスト教徒として、死ぬということは、今のとこ想定できません。でも、人生、何が起こるか判りません。もし、ある日、突然、コンバージョンが私に起これば、素直にそれが運命だと悟って、洗礼を受けて、クリスチャンになります。
 世界史の教科書で、キリスト教関連のできごとを、丁寧に拾って、一覧表のようなものを作成すれば、一目瞭然ですが、キリスト教の神は、決して正義の神だとは言えません。旧約的な怒りの神、恨みの神という気がします。片方の頬を打たれたら、もう片方の頬を差し出す的な雰囲気は、1ミリも感じません。十字軍は、どう考えても、乱暴、残虐な略奪行為です。ジャンヌダルクを見殺しにして火刑に処し、まったく無辜(むこ)の民と言ってもいいアルビジョワ派などを、異端だとして弾圧(抹殺と言った方がより正確です)します。身の安全は保証すると言っておきながら、だまし討ちのように、コンスタンツの公会議に呼んで、フスを処刑します。これらもろもろはローマカトリック教会の所業ですが、プロテスタントだって、魔女狩りで無辜の民を、沢山、処刑しています。
 イエスは、正義だったかもしれませんが、イエスから鍵を預かった末裔の人たちが、正義の宗教者だったことは、まあ、まずめったになかったと推定できます。正義だけでは、組織は運営できませんし、正直、食っても行けません。正義と不正義、善と悪とは、やはり、いつの時代のどの人間集団であっても、込み込みです。
 神がキリスト教徒でもない、多神教のジプシーの娘を救ってくれるとは、到底、考えられません。が、助けてくれと訴えることは、人間の自由ですし、神の救いを願って歌うことも自由です。哀れなジプシーの願いを、聞き届けて上げて欲しいと、オーディエンスが、願うことも、もちろん自由です。自由だからこそ、ディズニーのアニメは、制作できるんです。自由の尊さを、まず痛感してしまいます。
 私は、大聖堂の中に入ったことは、何回かあります(そう多くなくて、せいぜい4、5回です)。礼拝堂の椅子に座って神に祈るくらいのことはしました。大聖堂で、ミサを経験したといったことは、無論、一度もありません。そもそも、ミサ曲を歌っている大聖堂が、今でもあるのかどうかすら、寡聞にして知りません。私が持っているゴシックの美術集に掲載されているような著名な大聖堂では、おそらくやってません。著名な大聖堂は、もう、どこも観光で食っていると推定できます。
 ロダンは「建築は音楽だ」と言ってました。「凍れる音楽」と言われている薬師寺の東塔を、これまで少なくとも、15、6回くらいは眺めたことがありますが、真冬の一月に東塔を見た時でさえ、この「凍れる音楽」というフレーズの意味が「?」でした。ぴんとこないし、腑に落ちないんです。私の結論を言えば、薬師寺の東塔が「凍れる音楽」だというのは、言葉の綾です。お洒落なフレーズとして考え出して、それを観光のためのコピーとして、使っただけのことだと、私は判断しています。
 ロダンのいう「建築は音楽だ」というフレーズの真意は、「大聖堂の中に入ると、ミサ曲が聞こえて来るような気がする」と、勝手に仮定しました。で、ミラノやシエナの大聖堂に入った時、ミサ曲が、頭の中で鳴り響くかどうか、集中して、心の中で耳をすませてみたんですが、聞こえて来ませんでした。これは、まあ私自身の宗教音楽に対する造詣が、浅すぎるってこともあるのかもしれません。
 音楽から、映像が立ち上がることは、これはもう、頻繁にあります。私は、夜、寝る時、音楽を聞きながら、寝床に就きます。シンフォニーですと、第一楽章の半分くらいまでは、どの楽器がどんな風に鳴っているのかということを、ごく自然に聞き分けながら聞いているんですが、その内、音はさほど聞こえなくなり、自由きままな映像が、立ち上がって来ます。そうすると、もうリアルの意識は、だんだん薄れ、夢の中に入って行きます。私の次女は、スマホで音楽を聞きながら、絵を描いたりしています。音楽で掻き立てられるイメージと、リアルの被写体のイメージを、頭の中でコラボさせながら、描いているだろうと私は想像しています。もっとも、本人に訊ねたことは、ありません。自分の愛娘であろうと、そんなことまで詮索しちゃいけないと、そこは弁えています。
 11月中旬~下旬、夕方帰る時、夕焼けがとんでもなくきれいに見える日が、何回かありました。帰る途中に、二階建てくらいの家並みがずっと続いていて、ほとんど地平線が見える一画があって、そこの夕焼けを眺める時、えらく感動するんですが、同時に音楽が聞こえて来たことは、一度もないです。「夕やけ小やけのあかとんぼ赤とんぼ、負われて見たのはいつの日か」の童謡が聞こえて来るなんて、100パーセント、あり得ません。
 ですから、ロダンの「建築は音楽だ」のフレーズは、今だに私には謎です。建築は音楽のメカニズムと同じように、ある意味、有機的に構築されている言う風な意味なのかも、しれません。大聖堂で、実際にミサを歌っている場面に、私が立ち会うことができれば、大聖堂の中で、宗教音楽が頭の中で聞こえて来るってことも、あり得るのかもしれませんが、もうこれを確かめるchanceは、ありません。知らないことは、少しでも知っておきたいですが、身の回りのアクセスしやすい未知のものを、少しずつ、知って行くくらいで老後ライフは、充分だと自覚しています。

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