公#6「アルゴリズムがセレクトしてくれたニュースばかり見ていたら、視野が狭くなります。若い人でも、新聞くらいは読んだ方が、情報の幅は広がります」
「公共6」
公共の教科書も資料集も、見開きの2ページに渡って、沖縄の基地の問題を取り上げている。高校生が日常的に新聞を読み、テレビのニュースなどもある程度、見てくれていたら、超過密で、世界で最も危険な飛行場だと言われている、普天間飛行場の辺野古への移設問題も、かつて米軍ヘリが沖縄国際大学のキャンパスに墜落した事件も、米軍基地の沖縄へ密集状態も、おぼろげながらも、大枠くらいは承知しているだろうが、リアルタイムの高校生は、アルゴリズムがセレクトしてくれたニュースにしか、アクセスしないので、沖縄の基地問題も、日本と韓国とのこれまでの歴史的経緯も、日米安全保障条約の内容などについても、ほとんど知らないだろうと推定できる。
何ひとつ予備知識のない白紙の状態で、たとえば、沖縄の基地問題を伝えるのは、正直、容易なことではない。黒板に基地問題のあれこれを板書して、それが一応、試験の範囲だとしたら、試験終了後は、きれいさっぱり忘れてしまう。そんな教え方をしたら、あまりにも沖縄県民の方々に対して、失礼だと思う。
修学旅行が沖縄だったら、自分の目で見て来ているので、ある程度、リアルに伝えられる。が、今の2年生の修学旅行は、東北・函館方面だった。東北・函館方面の修学旅行だって、充分に意義深い。が、基地問題や、戦争について、うっすらであっても、理解するという観点に立てば、戦跡を訪ねることができる沖縄修学旅行が、やはりベストのchoiceだと思う。
16、7歳の感性で、何を見るかってことは、やっぱり重要。16、7歳の感性で、鍾乳洞の奥のコウモリを見て、「意外とキモカワじゃん」と見直すのも、別に悪くはない。16、7歳の感性は、北海道のソフトクリームは、めっちゃ美味だと発見するかもしれない。私は、高2の秋、東京に修学旅行に来て、上野動物園で、二時間待ちでパンダ(リンリン、カンカン)を見た。パンダのあのほのぼのとした癒しの威力には、畏敬の念すら抱いた。
16、7歳で、道の駅の二階のテラスからでもいいので、嘉手納基地を見渡せば、間違いなく、米軍の戦力、powerに圧倒される。飛行場とは別に、巨大な武器弾薬庫もある。
昔は嘉手納に核ミサイルとかも、どっさりあった。が、沖縄返還交渉の中で、当時の佐藤栄作首相は、アメリカに対して、「核抜き本土並み」を強く主張した。沖縄には、800発近くの核ミサイルを貯蔵していたらしい。教科書に黒太字で掲載されている「(核兵器は)もたず、つくらず、もち込ませず」は、沖縄返還前に、国会決議すらした。
日本の国会が決議したからと言って。アメリカが、唯々諾々とその意向に従うとは考えにくい。が、世界の(と言っても、アメリカとソ連の二か国だが)核戦略が、大きく変わろうとする時期だった。核を配備していて、そこを敵に狙い撃ちされたら、基地は無論のこと、近辺も全部、ふっとぶ。核を特定の場所に配備して、抑止力を期待することは、逆に危険を招くことになると、米ソの軍の参謀たちは、冷静に考えるようになった。だから、核は、どこにあるのか判らないようにしておく。これが、70'sの初めあたりからの、核戦術だった。これを可能にしたのが、原子力潜水艦。原子力によって、長期間潜り続けることができる。常に移動し、核ミサイルが、現在、どこにあるのか、相手に察知されないようにカモフラージュする。
日本政府は、沖縄返還に伴い、核兵器の撤去のために、移転費用として、3億2千万ドルを、アメリカに支払った。当時、一ドルは308円だったので、日本円にすると実に985億6千万円。撤去するだけで、こんなに莫大な金がかかる、核兵器って、「一体何?」と、誰しもが首を傾げてしまう。
1995年の夏の終わり、沖縄の小学生の女の子が、二学期に学校で使うための文房具を買うために、自宅近くの店に買い物に行った帰りに、アメリカ人の3人の兵士に車に引きずり込まれ、連れ去られて暴行された。最後、米兵たちは、基地に逃げ帰った。基地の中に入ってしまったので、日本の警察は、中には踏み込めず、逮捕もできなかった。検察が起訴をして、面倒な手続きをして、ようやく犯人は引き渡された。この時、沖縄県民85000人(主催者発表)が集まって、沖縄県民総決起大会が開かれた。少女暴行事件に抗議し、アメリカ基地の撤去・縮小を求めての決起大会だった。この決起大会で、沖縄の女子高校生が、自分が書いたメッセージを読み上げた。
「私は今、決してあきらめてはいけないと思います。私たちがここであきらめてしまうことは、次の悲しい事件を産み出すことになるのですから、いつまでも米兵に脅え、事故に脅え、危険にさらされながら生活を続けて行くことは、私は嫌です。未来の自分の子どもたちにも、そんな生活はさせたくありません。私たちに静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない平和な島を返してください」
この頃、日本はバブルがはじけた直後くらいだったが、私が日々過ごしている高校も、音楽業界も、まだ、バブルは、はじけてなかった(高校生のバイトの時給は、上野・御徒町あたりだと1200円だった)。経済的に日本が衰退し始めたのは、2001の9.11事件以後だと、私は感じている。音楽業界に関して言うと、90'sの後半こそ、バブルだった。千人キャパのクラブだって、いくつか渋谷を中心に生まれていた。ヒップホップが、本格的に日本に入って来て、Jヒップホップも誕生した。Jポップ系でいうと、ミスチル、ゆず、ジュディ&マリー、グレイ、ラルクアンシェルなどが、一斉を風靡していた。CDは、レコードと同じくらい高かったが(といっても日本のポップスは、レコードはもう発売してなかった)どんどん売れていた。
沖縄に日本の米軍基地の75パーセントが集中している。そこら中に、弾薬庫がある超ハイリスクの中で、沖縄の人たちは日々、過ごしている。かつての沖縄戦は、負けを承知の時間稼ぎで、日本の本土は、沖縄を犠牲にした。で、今もなお、犠牲にし続けている。 私は、飛行機は嫌いだが、修学旅行は、沖縄の一択ですと、担任時代にきっぱりと言ったことがある。自分の本音を言えば、飛行機などには乗らず、修学旅行は、京都・奈良に行って、20代の頃、毎年、見ていたように、奈良の国立博物館で、正倉院展を見たかった。が、教員としては、沖縄を推して、戦跡を見せるべきだと、確信していた。
米軍のヘリが沖縄国際大に墜落した時、幸いにして怪我人はいなかった。米軍が、即座に沖縄国際大に乗り込み、周辺を全面封鎖して、墜落したヘリコプターの機体を、すべて撤去した。日本の警察は、一切、手出しできなかった。沖縄国際大の事前の許可なども得てないと推定できる。これは、まさに治外法権。が、これが軍隊の本質だなと、改めて理解した。
沖縄戦で、日本軍は、沖縄の住民を守らなかった。13歳以上の男子生徒は兵隊に、15歳以上の女学生は、従軍看護婦として、徴用された。沖縄戦の日本軍の死者は6万人。本来、守られるべき一般住民は、13万人死亡している。
司馬遼太郎さんは、「街道をゆく、沖縄・先島」の中に「軍隊というものは、本来、つまり本質としても機能としても、自国の住民を守るものではない、ということである。軍隊は軍隊そのものを守る」と、はっきりお書きになっている。