自#596「通勤経路を、大通りから、住宅街を抜ける道に変えました。初冬の景色に、ちょっと感動しました。人は、お金や手間ヒマをかけなくても、少し工夫をすれば、happyになれたりするものです」
「たかやん自由ノート596」(冬景色)
国分寺駅から、勤務している学校まで、朝、走って登校しています。一昨日、躓(つまず)いて転びました。左手、右手と手を下ろして、道路に倒れ込んだわけですが、私が地面につけた左手から5センチくらいの近距離で、トラックのタイヤが走り抜けました。あと、10センチ左寄りに倒れていたら、左手首から先の骨が砕けていました。私が、走っているのは、白線の外側の歩道ですが、倒れ込んだ時、左手は車道に出ていました。年寄りですから、走っていたら転ぶこともあります。取り敢えず、リスクを避けるために、当分の間、走りを歩きに変えて、通勤コースも車が頻繁に走っている大通りではなく、住宅街にある裏道に変更しました。
大通りでは、ほとんど車しか見てませんでした。車は、別に嫌いではないです。自分が運転することも、乗せてもらうことも、嫌ですが、外側から車を見るだけであれば、景色のひとコマとして、カッコいい車でしたら、見入ってしまいます。ただ、排気ガスで空気は悪いですし、将来的には、電気自動車の方が、望ましいんだろうなとは、思っています。 住宅街に、通勤経路を変えて、庭の草木の植物のゆたかさに、ちょっと感動しました。私は、これまで7つの学校に勤めましたが、庭木の見える住宅街を通り抜けて、学校に通ったことは、かつて一度もありません。大通りを歩くか、商店街を抜けるかの、二つのパターンでした。庭木の四季折々の変化を楽しみながら通勤をする、こっちの方が、やはりはるかに老後っぽいです。通勤ルートを変えて、久々に八つ手の花を見ました。
「八つ手咲く門と塀とのそんな街」(山崎建朔)
子供の頃、どうして八つ手みたいな、何の変哲もない、見栄えのしない花を植えたりするんだろうかと、素朴な疑問を抱いていました。が、歳を取ると、モノの見方、感じ方は変わって来ます。八つ手の花は、何の変哲もなく、ぱっとしない花だからこそ、しみじみとした味わいがあります。深緑色の切り込みのある(七つの切れ込みがあって、葉の先が八つです)葉は、落ち着いていますが、勢いがあります。人のキャラですと、地味だけど、芯が強い、辛い時に、粘り強く頑張れる人って感じがします。八つ手のような、地味で真面目で、誠実な人は、確かにいますし、そういう人がいないと、世の中は円滑には回らないないなとも思ってしまいます。
山茶花がきれいに咲きそろっている庭も見ました。私の故郷の四国の高知ですと、山茶花は、12月の初め~中旬くらいに咲きそろいました。このタイムラグは、高知と東京の緯度の差ってことかもしれません。
さざんか、さざんか、咲いた道
たき火だ、たき火だ、落ち葉たき
私が子供の頃、ごく普通にこういう光景を見ました。朝、学校に登校しようとすると、年寄りたちが、たき火を囲んで、世間話をしてたりしました。大工さんの建築現場などは、翌日の朝、前日に出た木屑などを、燃やしたりしていましたが、そんな風に、朝、ゴミの処理も兼ねて、たき火をして、暖も取っていたんです。子供が、たき火の暖を取って、楽しむとかってことは、まずありませんが(子供は風の子ですから)年寄りになると、たき火の暖かさが、身にしみるようにきっとなります。試してみたいという気持ちもありますが、残念ながら、もう何年も(何十年かもしれません)リアルのたき火に出会ったことは、ありません。
今、勤めている学校には、ケヤキ樹が沢山あって、この時期、大量の落ち葉が出ます。その落ち葉を、90リットルのゴミ袋に入れ、それを悉く、ゴミ収集車が回収して行きます。学校の事業ゴミですから、ゴミ収拾の費用は請求されています。校庭のどこかで、燃やせば、お金もかからないし、肥料にする灰もできるし、理科的な体験も兼ねることもできます。火の妖しさ美しさ、powerを生徒に感じてもらつて、ゾロアスター教の教義のカケラなりとも、伝えることもできるのにと、思ってしまいます。
冬場に落ち葉などを燃やして、中庭で定期的に鍋大会を実施しているSGD'sっぽい学校というキャッチフレーズで、学校の宣伝などをすれば、興味関心を持って、鍋大会を見学に来て、試食もし、入学を決意する中三生だって、増えるだろうにと、反実仮想的なことも、想像してしまいます。
あっちこっちの庭で、南天の赤い実を見ました。千両と万両の区別はつけにくく、若い頃、何回も教えてもらったのに、何となくのレベルでしか解ってません。千両は、赤い実が密で、万両の実は、ちょっとバラけてるというイメージです。南天は、赤い実をつけると、小さな葉も紅葉し、いかにも初冬という風情があります。
「南天の葉うらも白き月夜かな」(三好達治)
これは、三好達治の「測量船」に掲載されている句です。「測量船」は、二回目の高1の一時期、私の座右の書でした。フランス料理を和風に拵えた料理を、私は食べたことはありませんが、三好達治の「測量船」は、そんな感じの、フランス風と和風のコラボだと、私は、推定しています。ワインと清酒を、ちゃんぽんで飲むことは、正直、想定できませんが、料理や文学なら、コラボは自由自在だろうって気がします。
棕櫚の樹を植えている庭も見ました。棕櫚の枝といえば、イエスがエルサレムに入場する際、民衆が出迎える時に、手に持っていた樹です。フェラーラのエステ家の紋章(crest)でもある棕櫚は、勝利の象徴ってことになっています。イエスは、エルサレムに行って、十字架にかかって、贖罪を成就させて、最終的に勝利したってことなんだろうと、推定できます。棕櫚の句も、「測量船」に掲載されています。
「冬という壁にしづもる棕櫚の影」
冬と棕櫚が、季重ねってことなのかもしれませんが、別段、私はシロウト俳人でもないので、気にしません。もっとも、棕櫚が冬の季語なのかどうかを、知りません。棕櫚は、つまりpalm、ヤシですから、夏の季節の樹なのかもと思って、手元にある第四版(最新は多分第七版)の広辞苑を引いてみると、「五月頃、黄色い小花をつけ、葉を晒し、夏帽子、敷物などにする」と説明してあって、「棕櫚の花」で季語は夏だそうです。棕櫚なんて、普通に知っていたつもりですが、ベーシックな基礎知識もなく、ほとんど何も知らなかったんだと、内心、ちょっと恥じ入ってしまいました。
みかんがたわわに実っている家の庭も見ました。ザボンや文旦などは、冬に実りますが、そういう種類なんだろうと推定できます。こたつの上のカゴに、ミカンが積まれたりしていると、冬って感じがします。樹に実っているザボンのような大きなミカンは、豪奢で華やか、美しさすら感じさせます。
「ふりそそぐ火に戯れて朱欒もぐ」(石田波郷)
大通りから、住宅街に通勤路を変えたわけですが、通勤時に見る景色が、一挙にゆたかになりました。怪我の功名ってやつかもしれません。
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