自#106|人事の絡まない、季節や自然は、やはりLost Season、Lost Natureとして、失われてしまう(自由note)
日本文学研究者のロバートキャンベルさんと、エッセイストの若松英輔さんの対談記事を読みました。キャンベルさんは、ニューヨークの出身で、近世・近代日本文学が専門です。現在は、立川にある国文学研究資料館の館長をされています。若松さんは、東京工業大で教鞭を取られています。
キャンベルさんが、館長を務めている国文学研究資料館で、三月にコロナの陽性の疑いのある職員が出て、勤務区域を徹底消毒、緊急事態宣言が出ると、8割が在宅勤務に入ったようです。長であるキャンベルさんが始めたのは、ひとつは、非正規雇用やアルバイト、パートで働いている方々を、一人もレイオフすることなく、給料を保証すること。もうひとつは、成果を気にせずに、普段できないことをすること。たとえ、仕事に直結しなくても、何か経験するとか、感じるとか、新たなことを学ぶと、それが仕事に結びつく可能性は高いと、説明しています。
キャンベルさんは、日頃、トレーニングジムで身体を鍛えていたんですが、ジムも閉鎖されてしまったので、毎日、夕方2時間ほど、ウォーキングをされていたようです。自宅から徒歩20分ほどの所に和田堀公園があります。善福寺川に沿って、深い緑の中を散策することができます。それを、2ヶ月ほど続けていたら、日本文学に現れる優雅で繊細なSecondary Nature(二次的自然)ではなく、現実の自然と出会えたそうです。キャンベルさんは、主に江戸時代が御専門です。江戸、京都、奈良のいわゆる三都は、人が居住している空間に関しては、すべて二次的自然です。私は、毎日、源氏物語を読んでいますが、中古の源氏物語だって、自然は、四季を空間上で再現した六条院や、あるいは光源氏の本来の実家である二条院で、花開き、日々、展開しています。二次的自然を、二次制作と言い換えても問題ないと思いますが、日本人は、古代からコミケに人があふれている今にいたるまで、二次制作に邁進(まいしん)して来た民族なんです。
二次制作を、Primary、一次制作だと一瞬、思うのは、命のある生命が過ぎった時です。和田堀公園の池の周囲には、年配の男性が10人ほど、三脚に大きなカメラを据えて、池の中にある島を見つめています。和田堀公園は、キビタキの中継地点で、それがやって来るのを待っているんです。キビタキは、冬は南方(東南アジア)で過ごし、夏は北に移動する渡り鳥です。リアルな生きた生物が登場し、ウキキッ、ウキキッと鳴きながら、中の島にやって来れば、一瞬にしてSecondary Natureは、Primaryなそれに変貌を遂げます。その瞬間を、カメラマンたちは、固唾を呑んで待ち構えています。
若松さんは、コロナ禍で、季節が失われたことが悔しいと、仰っています。私も、4月8日から、5月31日まで、テレワークでずっと自宅にいました。夕方、玉川上水沿いをジョギングしています。外に出るのは、その時だけでした(住まいのすぐ傍の広場の木陰で読書をしていましたから、それも一応、外に出てるっちゃ、出てたのかもしれませんが)。玉川上水沿いは、遊歩道になっています。そこは、シルバー人材センターの方が、草刈りをしたりして、管理しています。柵の向こう側の玉川上水の土手は、ノータッチです。私が見ていた2ヶ月弱の間、土手の植物は完全に放置されていました。つまり、Primary Natureです。
晩春から初夏にかけての植相の変化は、はっきりと見て取れました。新緑の緑が、最初透き通っていて、それが濃い緑に移り変わって行きました。紫陽花の色が移ろって行くのも、watchingしました。季節の変化は、細部に至るまで看取できていたと思います。が、季節の変化や移ろいの「をかし」も「あはれ」も、人事が絡まないと威力を持たないんです。これが、短歌と云うものを発明した根源の動機だろうと、想像できました。季節と云うのは、人事が絡まないと完成しないんです。私は学校に勤めています。桜の花が、まだ残っている頃に入学式があり、街路樹のアメリカハナミズキが開くころ、新入生歓迎の公演。新緑のfirst of Mayには、応援団の結団式が華々しく行われ、本格的な梅雨に入る前に、体育祭は無事終了し、七夕の頃、期末試験を迎える。季節の季感と、自然の美しさに、人事が絡んでこそ、四季折々の風情は、効力を遺憾なく発揮し、老人たちだけでなく、若者の胸にも、何らかの爪痕を残してくれます。人事の絡まない、季節や自然は、やはりLost Season、Lost Natureとして、失われてしまうんです。
先日、オンライン婚活のネタをnoteに書きました。料理の上手な年配のシングルの女性が「このまま、自分一人のためにご飯を、この先も、ずっと作り続けて行くのだろうか?」と、つぶやかれた気持ちは、私には痛いほど良く判りました。自然の食材を使って、四季折々の料理を作って食べるとすれば、それはやっぱり、誰かとshareしたいんです。shareとは、人事が絡むと云うことです。人事が絡むことで、日本の自然は完成します。私は、それを源氏物語を通読することによって、完膚なきまでに、肝に銘じて学びました(もっとも、源氏物語の人事のキモは、料理とかではなく恋愛ですが)。
キャンベルさんは、自分が作った料理を写真に撮って、ツィッターにupしています。一汁二菜です。主食は、シラス丼。ご飯の上にシラスと、アボガドのスライスを乗せて、すだちの輪切りを添えています。アボガドのねっとりした脂肪分でご飯を食べるのは、まあ私個人は、ありだと思います。ツィッターに、自分の作った料理をupするのは、誰かとshareしたいからです。つまり、作った以上は、人事を絡ませたいと云うことです。
キャンベルさんの愛猫の夕吉くんの写真も、upしています。夕吉くんは、愛くるしい感じですが、普通に無愛想な猫です。猫は、生物としてはPrimaryですが、人間に飼われこうやってネットにupされ、人間が絡むと、Secondaryなものになります。人事が絡んでばかりだと、ストレスが溜まるかもしれません。時折、Primaryな孤独にひたり、心を落ち着かせ、コミュケーションの絡むSecondaryに戻って来。そうやってバランス良く、過ごして行く知恵のようなものがあった方が、より息災に、よりhappyに過ごして行けそうな気がします。