創#783「二人で歩く時は、ちみもうりょうは出現しません。一人で歩いている時は、ケースバイケースで、出て来ます。これは、やはり自己の脳内で作り出している妄想なのかもしれません(私は、そうは思ってませんが)」

        「降誕祭の夜のカンパリソーダー528」

 二人はようやく、山径の登り口にあった、よろず屋に到着した。店に入ると、初老のマスターが
「いらっしゃい。山の上のホテルから来たのか?」と、我々に声をかけた。
「ええ、相方がどうしても氷砂糖を買いたいと言うので、散歩がてら歩いて山を下りて来ました」と、私が応じると
「運動部の学生か?」と、マスターは訊ねた。
「いや、合唱サークルです。が、ちゃんと歌うためには、運動部の学生ほどではないですが、この山径を往復するくらいの体力は必要です」と、私が言うと
「合唱サークルは、毎年、この時期に上のホテルに合宿に来ているが、山を歩いて来たのは、君たちが初めてだ。足腰を鍛えるためとは言え、夕暮れから夜にかけての山径は、不気味で怖くて、普通は歩かない」と、マスターが感心したように言った。
「いや、二人とも田舎者です。自分は四国の高知で、彼は山口です。長野のような、奥深い山々は、西日本には存在してませんが、山径には慣れています」と、私が言うと
「いや、オレはそんなには慣れてない」と、Yが口を挟んだ。
「ところで、氷砂糖は置いてますか?」と、私はマスターに訊ねた。
「あるよ。山に登る人が、時々、買って行く」と、マスターは店の奥の棚から氷砂糖をひと袋取り出して来た。Yは、代金を払って、それを受け取った。
「中野駅に、ホテルのバスが迎えに来てくれる。途中のスーパーで停車して、買い物をしただろう?」と、マスターが訊ねた。
「停車したと思うんですが、自分は寝てたので、買い物はしてません」と、Yが返事をした。
「自分は、スーパーは苦手です。買い物をするなら、店の人にいろいろ訊ねて買った方が、望ましいです。ずっとそこで長いこと営業している店であれば、店長も品物も信用できる筈です」と、私が言うと
「古風だな。そろそろ、閉店時刻だ。店を閉めたら、軽四トラックで、送ってやるよ。お茶でも飲んでゆっくりして行け」と、マスターが言った。
「軽四トラックの後ろの荷台に乗って、夜空を眺めながらというスタイルでも、いいですか?」と、私が聞くと
「いいよ。自由だ。ゆっくり走るから、荷台から落っこちたりということもないだろう」と、マスターは、笑いながら言った。店の入り口の近くに、テーブル替わりのリンゴ箱が二つ並んでいて、周囲に丸椅子が四脚置いてあった。我々が、その椅子に腰をかけると、マスターは、お茶の入った、寿司屋で使うような背の高い湯呑みを三つ持って来て、リンゴ箱の上に置いた。
「自分は、新宿西口で、一時、暮らしていたことがある。東口と違って、随分と寂しいとこだった。今は、すっかり様変わりしてると思うが」と、マスターは切り出した。
「52、3階建ての高層ビルが四つあります。その中のひとつに、一回だけ入って、52階にある料理屋で、食事をしました。郷里の先輩が、飯を食わせてくれたんです。窓が北側にあって、はるか彼方まで、見渡せます。所々に、ほんの少し緑っぽい部分があるんですが、基本、見渡す限り、全部、建物です。山も川も海も見えません。所々の緑っぽい部分は公園です。自分が住んでいるアパートの近くにも、井の頭公園という割合、大きな公園があります。が、人間の手によって、隅々まで管理されています。個人の家の庭を、大きくしたような空間です。普通の野山で遊ぶと元気になるんですが、公園を歩いていても、疲れることはあっても、元気にはなりません。管理された公園には、自然の『気』は、おそらく充満してないんです」と、私はマスターに伝えた。
「この山径の周囲の森は、別段、管理されているわけではない。ここまで歩いて来て、疲れはしただろうが、そこそこ、元気になったってことだな?」と、マスターは確かめるように言った。
「二人で喋りながら降りて来たので、そう気にならなかったんですが、夜の山径には、やっぱりちみもうりょうが潜んでいます。そういう存在が、自然の山の森だと、身近に感じられます」と、私は率直な口調で言った。
「確かに、大都会のビルの並んでいる空間には、ちみもうりょうは出現しないだろう」と、マスターが、相槌を打つように言った。
「ちみもうりょうが、出現しないことと、関係があるのかどうかは、判りませんが、実に安直に、駅に到着した電車に、プラットフォームから、飛び込んで、人が死んだりしてます。明らかに投身自殺ですが、国鉄はこれを、人身事故と言ってます」と、私が言うと
「自殺という言葉だと、濃くて強烈だ。そこは、やっぱり都会だから、sophisticatedしてる」と、Yが口を挟んだ。
「やって来た電車に飛び込むとか、怖くてとてもできそうにない。そんな恐ろしいことが実行できるのに、何故、死ぬんだ?」と、マスターが訊ねた。
「さぁ、まったく判りません。ただ、線路とプラットフォームとの間には、柵などは一切ないので、足を滑らせて、線路に転落して、轢かれるというケースだって考えられます。朝夕は、とんでもなく人がいます。ちょっと押されたら、線路に落下します」と私が言うと
「それは、オレもいつも思ってる。超満員のプラットフォームに立つのは、危険極まりない。みんなやってるから、こんなものなんだと、一応、納得したが、やっぱり超満員のプラットフォームに立つのは、今でも怖い」と、Yが言った。
「ちみもうりょうが、ちょいちょい出て来たら、それは、やっぱりびびるが、ちみもうりょうに呪い殺されるとかって、聞いたことがない。少々、怖くても、たいがい、無事、通過できる。いわば、健全な怖さだな」と、マスターはちみもうりょうを擁護するような口調で言った。
「自分は今昔物語の本朝編を読みましたから、マスターが仰っていることは、理解できます。限度を越えたリスクを犯さない限り、命が危険にさらされるってことはないです。気持ちが後ろ向きだと、魔界に引き込まれます。今でいうところの、ポジティブシンキングで、神仏のご加護を祈って、謙虚な暮らしていれば、不慮の事故で、命を奪われるってことは、ほとんどないと自分は確信しています」と、私はマスターに伝えた。

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