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自#154|どんなに辛いことがあっても、漫画を描いていると現実を乗り越えることができる(自由note)

 漫画家の庄司陽子さんのインタビュー記事を読みました。庄司さんは、昭和25年生まれ。私より4つ上ですから、今年、古稀(70歳)です。子供の頃は、大田区上池台の古いアパートにお暮らしになっています。一畳弱の台所に四畳半と六畳半。風呂はなくて、共同トイレ。四畳半を居間として使い、六畳半に家族五人(両親と庄司さん、二人のお姉さん)が寝ていたそうです。お父さんの給料が手取りで5万円。家賃は1万三千円。まあ、おそらくカツカツの生活ですが、昭和30年代は、普通にこういう家庭がありました。私は、子供の頃、四畳半一間の部屋で、母と二人暮らしでしたが、同じアパートには、六畳一間に、五人が暮らしている家庭もありました。狭い空間に、人がいっぱいいる、それが私の昭和のイメージです。

 庄司さんのお小遣いはなくて、洋服は高校を卒業するまでは、ずっとお姉さんたちのお下がり。お母さんは、自宅で裁縫の内職。冬のある日、ストーブの横で、お母さんが縫い物をしていて、庄司さんが、やかんをひっくり返したそうです。お母さんは、娘を助けず、着物の方をかばいます。お母さんは「着物は人様のものだから。それに弁償できない。娘は自分のものだから」と、言い訳をされます。その言葉を聞いて、庄司さんは「親が子供のことを一番に考えられなくなってしまう。貧乏ってイヤだな」と思ったそうです。「それが後の浪費癖を生み出しました」とも語っています。まあ、人によると思います。私も子供時代は、貧乏でしたが、浪費癖もなければ、浪費家であったことも、一度もありません。ずっと公務員だったので、浪費できるほどの収入がなかったとも言えます(公務員の給料は、世間並みか、世間並みより少し低いくらいです。高級取りだとは絶対に言えません。贅沢をしたい人は、公務員はNGです。時々、公金横領をしてしまう公務員がいますが、あれは、贅沢をしたい人が、誤って公務員の世界に足を踏み入れてしまったから起こる事件です)。

 商店街で買い物をすると、1枚1円のクーポン券が貰えたそうです。親の代わりにお買い物に行くと、そのクーポン券を自分のものにしてもいいと云う約束になっていて、そのクーポン券をせっせと溜めて、庄司さんは、漫画を買います。沢山買えるわけではありません。自分が持っている数少ない漫画を貸して、他の子供が持っている漫画を借ります。私も、小6、中1の頃、自分が持っていた数少ないレコード(ビートルズ、ストーンズ、ジミヘン、クリームなど)を貸して、音楽好きの友人からレコードを借りて聞いていました。

 庄司さんは、絵は独学で学んでいます。漫画は、ストーリーがキモですから、デッサンの高い技術は、さほど要求されません。庄司さんが中二の時、二つ歳上の里中満智子さんが、第一回講談社新人漫画賞を受賞して、16歳で漫画家デビューします。この時、自分も漫画家になりたいと決意します。自分とさほど年齢の離れてない、ほぼ同世代の方が活躍すると、やはり大きな刺激を受けます。最初の投稿作は、万年筆を使って、節約するために紙の表裏に描いたそうです。年に一回募集している講談社の新人賞に投稿し、高3の時、佳作入選して、担当さんがつきます。16ページの短編でデビューし、もう一作描きますが、その後は、依頼されなくなりました。担当さんには「リボンも描けない。宝石もフリルも描けない。絵が芋臭い」と、酷評されます。庄司さんは、漫画はストーリーが一番大事だと思っています。その後、30ページ前後の短編のネームを、月に4本、担当さんに8ヶ月間に渡って、送り続けたそうです。学園もの、スポーツもの、シリアスもの、コメディもの、等々。4×8=32本。32本のネームが、全部、ボツになります。その後、別の担当さんにネームを見てもらって、穴埋め原稿を依頼されるようになり、主に原作付きのスポ根漫画を描くようになります。その頃は、「巨人の星」のような、スポ根ものが、大流行していたんです。資料さえあれば、スポーツものは描けます。が、原作付きの漫画を描いている限り、自分のオリジナリティは、出せません。自分らしさって何だろうと、庄司さんは考え始め、ストレスで8キロ痩(や)せたそうです。自分らしさは、コメディだと結論を出して、コメディ漫画を描くようになります。代表作の「生徒諸君」は明るくコメディっぽい青春物語です。

 少女漫画ブームと言ってもいい時期がやって来ました。私が高校生の頃です。萩尾望都さんや大島弓子さん云った新人が登場したのは、この時期です。少女漫画のキャラ自体が、大人びた感じになって行きました。庄司さんは、中学生の時、一番、仲のいい友達と出会ったそうです。漫画家になることは、家族には大反対されましたが、友人たちが後押ししてくれました。年齢的には、中2、3くらい。明るくて、元気がある、クラスの仲間や友達がいっぱい出て来る楽しい漫画が描きたいと思ったそうです。その感覚で描いたのが、「生徒諸君」です。中2、3のきらきらした夢を抱えたJuvenileたちの行く末を見届けたかったので、最後まで描き切ったと、庄司さんは、仰っています。

 30歳で、「生徒諸君御殿」と、命名している7L2DKの一軒屋を横浜に建てます。功なり名を遂げた感じです。が、人生は、山あり、谷ありです。経理を任せていたアシスタントに八千万円、使い込まれてしまいます。お母さんは「盗む方じゃなくて、盗まれた方で、まだ良かったじゃない」と、慰めてくれたそうです。そのお母さんは、最後、寝たきりになります。年間、700万円かけて、住み込みのシッターさんに、お母さんの介護をしてもらったそうです。どんなことがあっても、自宅で母親を死なせてやりたいと、お考えになったわけです。最悪だったのは、コメディを描かせてくれた編集者との不倫。23歳から36歳までの、人生で一番いい時をドブに捨てたと、庄司さんは述懐しています。

 が、どんなに辛いことがあっても、漫画を描いていると現実を乗り越えることができるそうです。ヒロインたちの笑顔を描く度に、自分自身が、どんどん前向きになって行きます。
「下りのエスカレーターを駈け登って行く気持ちで、五十年以上、漫画を描き続けて来ました。もう少しだけ頑張って描いたら、パタっと行きたい。もし、生まれ変わるとしたら、もう一度、漫画家には、しんどくてなりたくないかな」と、仰っています。が、誰がどう見ても、庄司さんの天職は、漫画家です。生まれ変わっても、やはり漫画をお描きになる筈です。

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