美#168「子供の頃、柿は好きでした。野生の柿を、少々、渋くても食べていました。今は、柿が実っている景色を見るだけで、充分です。美味な紅茶は飲みたいと思いますが、食べ物に関する欲は、もう、ほぼ無くなってしまいました」
「アートノート168」
山種美術館の福田平八郎展で、唯一、写真撮影が許可されていたのは、昭和18年に制作された「彩秋」。Autumn Leavesと、英語のタイトルもついているが、描かれているのは、柿の葉の紅葉と、ススキの穂。福田平八郎は、まず、色が瞼に焼き付いて、その後、形や線が見えて来るらしい。私は、どういう風にモノが見えて来るのかを、真剣に考えたことがない。ふと気がつくと、何となく見えている。
柿の紅葉は、子供の頃、数え切れないほど見ている。何の変哲もない紅葉であり、地面に散った落ち葉だったと、推定できる(良く覚えてない)。
「彩秋」の柿の葉は、赤く色づいた紅葉も勿論あるが、浅葱色の葉もある。柿の葉は、新緑の頃は、ぴかぴかした若葉色。夏は緑が濃くなる。が、柿の葉が浅葱色になることは、さすがにない。明らかに現実には存在し得ない葉を描いている。
この絵が、制作された昭和18年は、太平洋戦争が、負け戦に傾きつつあった時期。非常時に、ゆるゆる絵などを描いていては、非国民のそしりを受けたかもしれない時代だった。絵をおおっぴらに描くことは、憚られるので、京都近郊の林で、人目につかないように、写生をしていたらしい。「光の当たり具合で微妙に色が変わるところなどを、描いていると楽しくて仕様がなかった」と、本人は正直に述懐している。
画家が言わんとしていることは良く判る。夕暮れ時の降魔ヶ時に柿の葉を見ると、浅葱色に見えた瞬間もあったのかもしれない。ある一日の違った時間に見れば、葉の色は、それぞれ違った色合いに見える。その時系列で変化して行く葉の色合いを、一枚の絵の中に収めたと考えられなくもない。
柿の葉は、にぎやかに並んでいるが、枝に実は描かれてない。柿の実を描くと、柿の実と葉と、どちらが主役なのか判らなくなってしまう。ススキの穂は、perfectな脇役。これは一目瞭然。葉の中でも、中央に描かれている浅葱色の三枚が、フューチャリングされているように見える。
私は、子供の頃、柿の紅葉などには、何ら興味関心などなかった。野の柿の熟したものを、一個か二個、食べる。これが、私と柿の木との付き合い方だった。20代の頃、奈良には良く出向いた。葛城山(当麻寺がある)に向かう山径の傍に置いてある、一個50円の柿を剥いて食べた(果物ナイフが料金箱の傍に用意してあった)。
柿は、今でも別段、嫌いではないが、もう食べても、食べなくても、どっちでもいい。玉川上水沿いの民家の庭に、柿の木があれば、5月の新緑の頃、夏休みの盛夏の時期、そして11月の紅葉などの季節ごとの景色を見て、enjoyする。リアルの景色を見るのも、絵に接するのも、どちらも楽しい。日々の日常の風景も、画集の絵も、美術館で見る本物の絵も、隠居してからは、現役時代の5倍以上、わくわくできるようになった気がする(仕事がたいしてなくて、ヒマだからだと想像できる)。
福田平八郎の「漣」を見た。正確に言うと大阪の中之島美術館が収蔵している、あの著名な「漣」のパーツのようなものを描いた部分図。「漣」は、全体像が描かれていて、ようやく漣だと認識できる。部分だけを取り出しても、イミフ。それこそ、浴衣や手ぬぐいの模様のようなものになってしまう。
「漣」が描かれたのは、昭和7年。これが、戦前の最高傑作ということになっている。ちなみに戦後の最高傑作は、東京国立近代美術館が収蔵している「雨」。この二つのどちらがより優れているのか、判断は難しいが、私は個人的に、「漣」の方が、my favorite。
まあしかし、それは(現実の)漣を見た回数が多いか、屋根瓦を見た回数が多いか、その回数の違いじゃないかという気もする。子供の頃、いや歳を取ってからも、屋根瓦などは、注目したことがない。奈良の三月堂や唐招提寺、法隆寺などの古刹に行けば、屋根瓦にも注目するが、住まいの周辺にある、スレート葺きの屋根瓦などを、ちゃんと見た記憶はない。漣の方は、子供の頃から、嫌というほど見た。
釣りは嫌いだったが、川や海の漣は、ビートルズの歌などを口ずさみながら、結構、飽きることもなくずっと見ていた。
福田平八郎の漣は、良く描けている。リアルかリアルじゃないかというと、明らかにリアル。絵柄としては、装飾的なのかもしれないが、リアルの水も彷彿させてくれる。水を群青の波で表現しているが、辰砂の絵の具を使うと、たちどころに、夕日が沈む頃の漣に変貌する。手前はぽきぽきした短い線だが、それが遠くに行くに従って連結し、次第に複雑さを増して濃密になり、連結した長い線になっている。その配置、結合は、ひとつとして同じものはなく、無限の変化を見せている。水の冷たさ、深さ、広がり、運動などを、暗示している。
私が個人的な好きな福田平八郎の作品は、「牡丹」。周茂頻の「愛蓮説」に「牡丹は花之富貴なる者也」というフレーズがある。古代の中国では、牡丹は、特に持て囃(はや)されていた。牡丹と芍薬の区別すら怪しい私には、牡丹を語る資格はないが、司牡丹という土佐の地酒を、若い頃、愛飲していたので、日本酒に酔って、朦朧とした状態で見る牡丹の景色は、福田平八郎が描く絵のようなイメージじゃないかと勝手に想像している。
中国の院体画の絵などほとんど、見たことはないし(画集は少し見た)知識も、皆目ないが、福田平八郎の牡丹が、院体画の影響を受けていると言われたら、素直に信じられるような気がする。
下手(しもて)に少し背の高い紅の牡丹を描き、中央は、ボリュームのある白い牡丹。右側の余白にアクセントとして、竹と二株の白牡丹を描いている。中央のボタンの下枝に、可愛い小鳥を三羽添えている。ひとことで言って、ゴージャスということに尽きる。
絹の裏側から彩色する裏彩色の技法も使っているので、陰影の濃い奥行き感が生まれ、牡丹が、よりいっそう、妖しく、華やかに見える。レプリカでもいいから、部屋の壁に飾ってみたいと思わせてくれる。