世#07「戦国時代の斉」
「たかやん世界史ノート⑥」
インドで一番偉大な思想家は、ガウタマ=シッダールタ(ブッダ)です。中国のNo1は、孔子です。ともにヤスパースの云う枢軸時代に活躍していますから、今から二千四、五百年前の偉人です。その後に与えた影響と云う意味では、孔子の方が、圧倒的に大きな影響を与えています。孔子は、その後の中国と云う国家のコンセプトのcore(核)を作り上げたと言えます。ブッダの唱えた仏教は、残念ながらインドでは消滅してしまいました。南伝仏教の方は、ブッダの教えの幾ばくかは伝えているのかもしれませんが、北伝仏教、つまり大乗仏教は、ブッダの教えとはまったく異質の、新たに創作したオリジナルな仏教だと言っても過言ではありません。ブッダが唱えた仏教には、そもそも神は存在しません。乱暴な言い方をすると、ブッダが唱えた仏教は、宗教ではなく、哲学だったんです。どうすれば、解脱できるのかと云う方法を教える(示唆すると言った方が正確です)哲学です。
孔子の教えもある意味、哲学です。ブッダのそれを、認識哲学だとすれば、孔子のそれは、実践哲学です。ブッダも孔子も、怪力乱神を一切、語っていません。殷や周の青銅器には、饕餮(とうてつ)言われる怪力乱神が描かれていますが、それは、孔子が登場する前の時代の産物だからです。
ブッダも孔子も、リアルタイムを如何にして過ごすかと云うことを、教えました。ブッダは、自灯明だと、弟子たちに伝えます。自灯明を直訳すると、自らが灯りを照らせと云うことですが、要するにどうするかは、最終的に自分で考えなさいと、突き放しているんです。解脱の道は、誰かに教えられ、説かれると云うものではありません。修行者は、自力で解脱する必要があります。
孔子は、まあいろんな例え話で、実践哲学について語っています。例え話(つまり論語)が、多すぎて、かえって混乱してしまっているとこも、ちょっとはあったりします。
孔子は、根本は「仁」だと言っています。仁=愛と、単純に考えてもらってもいいです。キリスト教的な無差別の愛(アガペー)ではありません。アガペーは、神だからこそ実践できる無差別の愛なんです。仁のコンテンツは、孝と悌(てい)です。孝と云うのは、親および先祖に対する愛です。つまり遠い御先祖から、はてしなく長い間続いて来て、自分まで辿り着いた命に感謝して、親および御先祖を愛する、これが孝です。当然ですが、御先祖様を祭る墓(それが自宅にあれば祠堂)があります。インドでは、仏教も、ジャイナ教もヒンズー教も、先祖崇拝はありません。人間は、輪廻転生するんです。先祖は、どこにも存在してません(解脱すれば、我々の存在とはかけ離れた所に行ってしまいます)。ですから、人が死ねば、火葬をして、灰はガンジス川に流します。
悌は、兄弟の間の自然な情愛です。ですから、親や兄弟などの血縁に対する愛が、一番強くて、濃いんです。この血縁への愛を、周囲に押し広げて行くためには、忠と恕を備える必要があります。忠は、いつわりのない誠実なまごころ、恕は、他人への思いやりです。つまり、孝が一番中心にあり、悌が家族愛を補完して、家族愛のようなものを周囲に押し広めて行くためのエンジンとして、忠と恕があります。これが、仁の基本のシステムです。
ところで、これはすべて心の中で完結するシステムです。仁は心のあり方です。その心のあり方を、外側に目に見える形にしなければいけません。仁を目に見える形にしたものが、礼です。
たとえば、私は、自分の女房に感謝しています。私は、学校の仕事ばかりして来て、子育ては女房に任せっぱなしでした。私の母が認知症になった時、教師を早期退職して、母の介護をするしかないと覚悟していたんですが、女房が母の介護を担当してくれて(その代わり、私は家事をやっていました)教職を続けることができました。教師をここまで続けて来れたのは、女房のお陰です。心の中では、もうそれは、途方もなく感謝しています。が、それは、外側に表さなければダメなんです。具体的なことを云うと、誕生日にケーキを買って帰るとか、クリスマスプレゼントを用意するとか、何かの折りには、「いつもありがとう」と、きちんと言葉で感謝を述べるとか、これが、つまり外側に現れた礼です。 シェークスピアに「リア王」と云う戯曲があります。上の二人の娘は、財産を分けてもらうために、おべっかを使ったり、プレゼントをしたりします。つまり、形式的ですが、礼を尽くしています。三女のコーディリアは、心の中では、父親を愛しているし、感謝もしているんですが、姉たちのようなわざとらしい行動はできません。ですから、礼は実践できてません。
孔子の教えを儒教と言います。儒教的には、このコーディリアの外側に礼が現れてない生き方は、NGなんです。愛していたり、感謝していたりするのであれば、やはり、形に現す必要があります。
心の中は腹黒いのに外側はちゃんとしているA子と、心の中はきれいなのに、外側に現せないB子と、どっちの人生が成功するかと言うと、それはもう圧倒的にA子の方です。外側に礼を現せない人間は、絶対に成功しません。心の優しい三女のコーディリアは、結局、不幸な死に方をします。世の中は、決して、ディズニー映画のような、happy endになるわけではないんです。
ところで、孔子は、生涯のプログラムを拵えてくれています。
子曰(しいわ)く、吾(われ)十有五にして学に志す。15歳は志学です。15歳から、本格的に学び始めると言う意味です。
三十にして立つ。30歳は而立(じりつ)です。30歳からは、人生のテーマを決めて仕事に取り組むと言う意味です。
四十にして惑わず。40歳は不惑。40歳で惑って、脱サラして、ラーメン屋や蕎麦屋のマスターになったら、中途半端な人生になってしまいます。あと、体力的にも急激に落ちる時期なので、惑っていると、メンタルがやられます。
五十にして天命を知る。50歳は知命。今までやって来たテーマが、これで良かったんだと、再確認します(天が命じた通りだったと)。
六十にして耳順う。60歳は耳順。60歳になると、他人の言ってることの、行間がはっきりと読み取れるようになります。
七十にして、心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず。70歳は従心。自分のこころの求めるままに行動しても、規定、規範から外れるようなことがなくなった。
もっとも、70歳は、杜甫の「曲江」と言う詩に由来する「古希」の方が、普通に使われています。ちなみに、弱冠は二十歳。これは礼記が由来です。