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自#162|正義や筋の通った理論が、政治の現場で威力を発揮するのは、ラクダが針の穴を通るより難しい(自由note)

 政治評論家の伊藤惇夫さんのインタビュー記事を読みました。伊藤さんは、葉山生まれの葉山育ち。私より六歳上ですから、現在72歳。団塊の世代です。家業が牛乳屋だったので、夏場は海の家まで、牛乳を運ぶ手伝いをします。その頃は、清涼飲料水がなかったので、海水浴場で飲むのは、牛乳だったそうです。伊藤さんより少し後の世代の私が子供の頃、瓶に入った濃縮されたカルピスはありましたが、いわゆる清涼飲料水は、ラムネとみかん水くらいしかなかったと記憶しています。コカコーラを、初めて見たのは、中学生になってからです(まあこれは、私の故郷が四国の片田舎なので、コカコーラがやって来るのに、きっと相当時間がかかったからです)。

 伊藤さんの母親は、教育ママで、二人の優秀なお兄さんたちは、中学校から私立の進学校に進みます。伊藤さんは、お兄さんたちが進学した私立中学校に落ちて、越境して鎌倉の公立中学校に入学します。越境したのは、葉山より鎌倉の方が、教育のレベルが高かったからです。母親には、名門の県立湘南高校を目指すように言われていたんですが、優秀な二人のお兄さんたちのようには勉強できず、横須賀にある県立追浜高校に進学します。高校でも、勉強は怠けていたようです。夏木陽介さんが主演した「青春とはなんだ」と云う学園ドラマが、一世を風靡(ふうび)していた頃で、その影響を受けて、ラクビー同好会を作ったそうです。

 学習院大学法学部に進学して、体育会のラグビー部に入部します。早稲田の二軍に百対ヒトケタで負けるような弱小チームだったんですが、練習はそれなりに厳しかったようです。二年生の終わり頃、試合でタックルをしたら、相手選手のヒザが、目に入ってしまって、もう一度これをやったら、失敗すると医者に宣告されて、親も心配し、その後は、本ばかり読んでいたそうです。葉山から学習院のある目白まで、片道、2時間かかります。本を読む気になれば、電車の中だけでも、毎日、4時間、読書に没頭できます。「遅刻が多すぎたせいで、留年しました」と語っています。たとえ、本は読んでいても、法学部の勉強はせず、成績もカツカツで、お情けの卒業だったと推測できます。それでも、卒業後は、出版社にきちんと就職しています。昭和の古き良き時代です。

 その後、転職して(出版社の場合、超大手を除いて、転職を重ねてキャリアアップしていくケースが多いと言えます)自民党の機関誌「自由新報」の編集部員になります。

 勤め始めて数ヶ月後に、自民党総裁からお中元が届きます。当時の自民党総裁&内閣総理大臣は、田中角栄。さすが角さんです。最末端の機関誌のペーペーの編集部員にまで、きちんと、気配りして、お中元(新潟の鮭の粕漬)を贈っています。

 伊藤さんは、「僕は給料分しか働かない駄目サラリーマンでした」と、正直に、告白しています。「自由新報」は、週一の発行です。毎週、1、2本の原稿を書けば、あとは自由だったそうです。下調べして、準備したとしても、一日あれば、1本書けます。2本書いても、働くのは二日。あとの五日間は、左うちわで過ごせます。これも、まあ、昭和の古き良き時代だったからこそだと、言えそうな気がします。

 伊藤さんが、不惑(40歳)を迎えた年、リクルート事件が起こります。自民党の派閥の領袖を筆頭に、90人以上の政治家が、未公開株を受け取って、大儲けをしていたと云う事実が発覚し、竹下登内閣は総辞職します。大きな打撃を受けた自民党は、「政治改革推進本部」を設置します。事務局のスタッフとして、伊藤さんも呼ばれます。1989年から1992年にかけて、「自民党政治改革大綱」の取りまとめに携わったそうです。

 政治改革推進本部は、伊藤正義本部長と、後藤田正晴本部長代理を中心に、羽田孜さん、石破茂さん、岡田克也さんたちがいたそうです。「たとえ自民党が野に下る結果になろうとも、この国の政治システムを変えなければいけない」と云う熱い思いを持った政治家が、集まっていた。僕も初めて、本気で政治の勉強をしました。週の半分は徹夜するような生活が続きました」と、伊藤さんは語っています。

 が、結局、党内がまとまらなかったために、政治改革関連法案は廃案になります。正義や筋の通った理論が、政治の現場で威力を発揮するのは、ラクダが針の穴を通るより難しいことなのかもしれません。

 後藤田さんは「政治改革を目標に掲げながら、選挙制度改革に矮小化されてしまった」と、仰っていたそうです。伊藤さんは「後藤田さんは、裏表がなく、常に国家と国民の将来を考える尊敬できる政治家でした」と、述懐しています。尊敬できる政治家と出会えたことは、伊藤さんにとって、かけがえのないhappyなできごとだったと想像できます。

 小沢一郎さんが、自民党を離党し、新生党を立ち上げた時、伊藤さんも誘われます。が、その誘いを断ります。小沢さんは「わかった。選挙を前にした、今、必要なのは、大工と左官だ。君みたいなインテリアデザイナーは、後から来ればいい」と、言ったそうです。伊藤さんは「今、欲しいのは実戦部隊であって、政策と広報を専門とする僕は、当面、必要ない。人を道具としてしか見ない小沢さんらしい言い方でした」と、語っています。

 伊藤さんの趣味はバイク(団塊の世代には多いと思います)。若い頃は、ハーレーやBMWにも乗っていたそうです。が、大型のバイクを乗りこなすためには、体力と気力が必要です。今は、400ccの中型と、あともう一台、小型に乗っているそうです。バイクに乗ると、完全に自由になれるので、自分を見つめ直せると、仰っています。

 伊藤さんは、結婚直後、一時期、厨子に暮らしていたんですが、基本はずっと葉山暮らしです(厨子は葉山のすぐ隣ですから、同じ文化世界です)。伊藤さんは「葉山からは離れたくなかった。空気が悪く汚濁にまみれた永田町にいると毒を吸ったような気分になります。仕事を終えて、東京駅から横須賀線に乗り込むと、途中から空気が変わるし、家に帰り着いたらホッとするんです。おかげで、精神のバランスを保てたんだと思っています」と語っています。この気持ちは、(そうは言っても田舎の)多摩地区から、都心部に通っている私も、何となく解るような気がします。

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