自#565「コロナ禍の第5波も収まり、社会は平常に復しつつあります。このあと、ハロウィン(万聖節)、そしてクリスマス(降誕祭)、初詣のお正月が来て、ヴァレンタインディ、桃の節句、ホワイトディ、イースターと、これぞ、多神教の国、日本って気がします」
「たかやん自由ノート565」
小学校2年生の時、近所に住んでいた中学生の二人の先輩が、「夜、山に登ったりすることは、怖くてとてもできない」と言ったので「じゃあ、自分が登ります」と、二人に宣言しました。この話をしていたのは、夏の昼間です。「今は昼だから、軽々しく、そんなことを言ってるが、夜になると怖くなる。絶対にムリだ」と反論されました。
この日の夜、即座に単独登山を実行しました。登るのは、ハイキングに行く山なので、登山というほどの山でもありませんが、小2の脚力ですと、頂上に達するまでに、40分くらいは必要です。先輩が、懐中電灯を貸してくれました。それで、足下を照らしながら登り、頂上に達っしたら、到着した証拠として、頂上で懐中電灯を振って、合図を送る約束になってました。
深夜の12時に、麓の入り口から、登り始めました。それまでに、何回か登ったことのある山なので、登山ルートは理解していました。星月夜で、懐中電灯で照らさなくても、山径の様子は分かりました。で、40分かけて到着し、約束通り、頂上で懐中電灯を振り回しました。今でしたら、深夜にclimbingを実施したわけですから、頂上で休憩し、「I did it!」と呟いたりして、感慨に耽ったりするのかもしれませんが、小2の男の子は、そんなことは考えません。すぐさま下山し始めました。
行きはまったく何とも思わなかったんですが、帰りは、突然、怖くなりました。山径の下りが危険だとかってことではなく、山に棲んでいるかもしれない、ちみもうりょうが怖くなったんです。ちみもうりょうに、取って食われるとか、何か具体的な危害を加えられると言ったことは、さすがに考えられないんですが、小1の時に、敬愛していたJ叔父が、死んだ時と同様な、何か根源的な怖さのようなものを感じました。ちみもうりょうが、存在するとは、小2の頭脳でも、合理的には考えられなかったんですが、現実、生理的な恐怖感をまざまざと感じていますし、人間というものは、実に摩訶不思議な状態で、日々、生きているといった風なことも、多分、この時、直観しました。
降りて来て、二人の先輩に「怖くなかったのか?」と聞かれました。「行きは全然、平気でした。帰りは、急に怖くなりました」と、正直に返事をしました。「でも、オマエは、本当に登ったから偉い。こんなこと、子供には誰もできない」と褒められました。人生で初めて、他人に褒められたなとは思いましたが、でも、こんなことは、別に褒められることでもないなと、妙にしっくり来ない気もしました。
ウチの子供たちに、いつだったか「お父さん、幽霊はいると思う?」聞かれて、「判らない。でも、多分、いると思う」と、返事をしました。「判らない」は客観的な事実で、「多分いると思う」は、主観的な意見です。またある時「神はいると思う?」質問されて、「それも判らない。が、神のようなものは、やはり存在すると思う。神のようなものが、いないとしたら、この宇宙の存在が説明できない」と率直に答えました。
人間には、アダムとイヴ以来の原罪というものがあって、まあしかし、それをイエスが十字架に架かることによって、一応、チャラにして、イエスが神の国の到来と最後の審判を約束してくれたので、正しい人間は、神が将来、再臨したら、神に国に入って行けるといった風なことを、日本人が信じることは、ラクダが針の穴を通るより、難しそうな気がします。毎週日曜日に、教会に通って、毎日の食事の前に、お祈りを捧げている人たちだって、こんなドストレートな直球のキリスト教を信じている人は、西欧にだって、そうそうはいないんじゃないかと、私は想像しています。
文学の世界で、perfectなキリスト教者を創り出すことは、可能です。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の三男のアリョーシャは、間違いなく正真正銘のクリスチャンです。キリスト教の宗教画家といえば、やはりグレコが筆頭に挙げられると思います。が、私にはグレコが良く判りません。強烈なまでに、エキゾチックな世界観です。10代の頃、倉敷でグレコの「受胎告知」を見て「これが、キリスト教だと言われても、自分には、皆目、何も判らないな」と、感じたことがあります。
私の目から見て、ストレートにキリスト教を感じるのは、ミレーの「晩鐘」です。これこそ、ドストライクで、正直、誰にでも判りそうなキリスト教だと思います。そのドストレートな「晩鐘」のレプリカを、オクラやゴマを植えている、江戸時代の惣村とさほど変わらないような、四国の田舎の農家の居間で、looking atしたんです。これは、つまり、宗教心というものは、キリスト教であれ、仏教であれ、神道であれ、普遍的なものだということを、証明しているのかもと、思ったりもします。宗教の本質は同じで、ただその表し方のヴァリエーションがあるだけだとしたら、我々、日本人の多神教も、最終的には、唯一の何か(つまり摂理)を信じているってことに、なるのかもしれません。
農民画家として、ミレーは、ブリューゲルの影響を受けているといった風な解説を、見かけたりします。私は、若い頃、ロマンロランの「ミレー」を読んでいます。ブリューゲルの影響を受けたなどとは、爪の先ほども記述されてませんでした。ミレーが影響を受けたのは、ミケランジェロとプーサンです。これは、間違いないです。絵に関して、素人の私が見ても、ミレーの絵の古典的などっしりとした安定した形の魅力は、ミケランジェロやプーサンに通じていると直観できます。ミレーは、レンブラントも尊敬していました。バロックですと、ルーベンスやヴェラスケスに関しては、何らかの学習をすることが、可能だと推定できます。が、レンブラントは、学習不可能です。レンブラントは、オリジナルな、絶対に他人が、真似も学習もできない、深い所に、キリスト教者として到達してしまった人だと、私は判断しています。ミレーもキリスト教者ですが、フランスとネーデルラントとはやはり違いますし、純粋なカトリック教徒と、新教徒の違いってとこも、きっとあります。まあしかし、キリスト教というのは、正直、やっぱりよく判らないなというのが、偽らざる感想です。
ブリューゲルは、そこら中、ちみもうりょうだらけです。ブリューゲルを念頭において、これでかれこれ14、5回、noteを書きましたが、14、5回書いて、やっと小2の夏に自分が感じた、夜の山に棲むちみもうりょうを思い出しました。これを、思い出したくて、ずっとブリューゲルにこだわっていたのかもと、考えてしまいました。私が小2で感じたちみもうりょうは、子供の頃、お盆の時、お寺に飾っていた地獄絵図のようなものかと聞かれたら、「うーん、違うかも」と言わざるを得ませんし、ブリューゲルが描く小悪魔たちって感じもしません。ちみもうりょうの正体を突き止めるために、60代手習いで、取り敢えず、民俗学の初歩を学習するといった、殊勝な気持ちも持ち合わせていません。日本には日本の、西欧には西欧の、それぞれdiversityに富んだ、ちみもうりょうが存在していということで、まあいいかなと、simpleに考えています。